公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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徒然草 第百五十五段

2018-04-05 14:04:09 | 今読んでる本
吉田兼好 徒然草 第百五十五段 にはとても大事なことが書かれている。よく生きるためには死を知らねばならない。その死というものが、遠い潮が迫り来るのではなく、磯の足元からやってくるのだ と語っている。これこそが自然を観察して、己を観照することで自覚される心眼の働きである。古の人々は医学知識に依らずとも生死の必然をこの肝に納めておくことができる。現代人には尚これができない。ますます分裂的、分解的自己理解に窮しているありさまだ。

ちょっと長いが、引用しておく。
「世に従はん人は、先づ、機嫌を知るべし。序悪しき事は、人の耳にも逆ひ、心にも違ひて、その事成らず。さやうの折節を心得べきなり。但し、病を受け、子生み、死ぬる事のみ、機嫌をはからず、序悪しとて止む事なし。生・住・異・滅の移り変る、実の大事は、猛き河の漲り流るゝが如し。暫しも滞らず、直ちに行ひゆくものなり。されば、真俗につけて、必ず果し遂げんと思はん事は、機嫌を言ふべからず。とかくのもよひなく、足を踏み止むまじきなり。
春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅も蕾みぬ。木の葉の落つるも、先づ落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌しつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、待ちとる序甚だ速し。生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。四季は、なほ、定まれる序あり。死期は序を待たず。死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し



現代語【参考】
 世間に順応しようと思う人は、まずは時期を知らなくてはいけない。順序が悪いと、人の耳にも逆らい、気持ちにも背いて、しようとしたことがうまくいかない。そういう時期をわきまえるべきだ。ただし、病気になったり、子供を産んだり、死ぬことだけは、時期を考えることができない。時期が悪いからとて止まるものではない。万物が生じ、とどまり、変化し、なくなっていくという四相の移り変わりの大事は、勢いのある川が満ちあふれて流れていくようなものだ。少しの間も止まることなく、まっすぐに進んでいくものだ。だから、仏道修行においても日常生活においても、必ず成し遂げようとすることは時期のよしあしを言ってはいけない。あれこれ準備などせず、足踏みしてとどまってはいけない。
 
 四季の移り変わりにおいても、春が終わって後、夏になり、夏が終わってから秋が来るのではない。春はやがて夏の気配を促し、夏にはすでに秋が入り交じり、秋はすぐに寒くなり、十月は小春日和で、草も青くなり梅もつぼみをつける。木の葉が落ちるのも、まず葉が落ちて芽ぐむのではない。下から芽が突き上げるのに耐え切れなくて落ちるのだ。次の変化を迎える気が下に準備しているために、交替する順序がとても速いのだ。生・老・病・死が次々にやってくるのも、この四季の移り変わり以上に速い。四季には決まった順序がある。しかし、人の死ぬ時期は順序を待たない。死は必ずしも前からやってくるとは限らず、あらかじめ背後に迫っている。人は皆、死があることを知りながら、それほど急であるとは思っていない、しかし、死は思いがけずにやってくる。ちょうど、沖の干潟ははるかに遠いのに、急に磯から潮が満ちてくるようなものだ。

追補2018.4.5
アルピニスト(登山家)の野口健は細菌感染で入院して以下のように思ったそうだ。
『3月中旬から予定していたヒマラヤ遠征も延期。入院中、病室の天井を眺めながら感じたことがある。遠くばかりを見て足元を見ようとしていなかったのだと。自分を大切にできない人が、自身の夢や目標ましてや他者を大切にできるわけがない。病からの気づきもある。入院生活は贅沢(ぜいたく)である。何しろ自分の体のことだけに専念すればいいのだから。』







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道元禅師はこう述べる。

生死の中に佛あれば生死なし。又云く、生死の中に佛なければ生死にまどはず。
こころは、夾山、定山といはれしふたりの禪師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。
生死をはなれんとおもはん人、まさにこのむねをあきらむべし。もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解のみちをうしなへり。ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり。
生より死にうつると心うるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり。かるがゆゑに、佛法の中には、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、又さきあり、のちあり。これによりて、滅すなはち不滅といふ。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらばただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ。
この生死はすなはち佛の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち佛の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて生死に著すれば、これも佛のいのちをうしなふなり、佛のありさまをとどむるなり。いとふことなく、したふことなき、このときはじめて佛のこころにいる。ただし、心をもてはかることなかれ、ことばをもていふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、佛のいへになげいれて、佛のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、佛となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。
佛となるに、いとやすきみちあり。もろもろの惡をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろづをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもふことなく、うれふることなき、これを佛となづく。又ほかにたづぬることなかれ。」正法眼蔵

正法眼藏生死

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