紙媒体でも頑張るオバジー
紙媒体といえば指名手配ポスター、誰が捕まったのか現時点で推測でしかないが、先に破防法で服役した人物は何を思うか。地震以外でマスコミは村の識者を取材しないのか?
追補2017.5.24
『連続企業爆破事件で、殺人などの罪に問われた大道寺将司死刑囚(68)が24日午前、東京拘置所で死亡したことが、関係者への取材でわかった。死因は多発性骨髄腫という。』
門田隆昌 狼の牙を折れ より
〈一九七四年八月三〇日三菱爆破=ダイヤモンド作戦を決行したのは、東アジア反日武装戦線〝狼〟である。三菱は、旧植民地主義時代から現在に至るまで、一貫して日帝中枢として機能し、商売の仮面の陰で死肉をくらう日帝の大黒柱である。今回のダイヤモンド作戦は、三菱をボスとする日帝の侵略企業・植民者に対する攻撃である〉 そこには、三菱重工が、日帝中枢として機能した企業であり、商売の仮面の陰で〈死肉をくらう日帝の大黒柱〉であったことが攻撃の理由であったと表明されていた。さらに犯行声明は犠牲者に対しても、こう容赦なく指弾していた。 〈〝狼〟の爆弾に依り、爆死し、あるいは負傷した人間は、『同じ労働者』でも『無関係の一般市民』でもない。彼らは、日帝中枢に寄生し、植民地主義に参画し、植民地人民の血で肥え太る植民者である。〝狼〟は、日帝中枢地区を間断なき戦場と化す。戦死を恐れぬ日帝の寄生虫以外は速やかに同地区より撤退せよ。〝狼〟は、日帝本国内、及び世界の反日帝闘争に起ち上っている人民に依拠し、日帝の政治・経済の中枢部を徐々に侵食し、破壊する。また『新大東亜共栄圏』に向かって再び策動する帝国主義者=植民地主義者を処刑する〉
〈東アジア反日武装戦線に志願し、その一翼を担うわが部隊は、本日、植民地主義侵略企業三井物産に対し、本社爆破攻撃を決行した。 一九七四年十月十四日 東アジア反日武装戦線〝大地の牙〟〉
しかも、爆発は、都心だけではなかった。青山から三十キロ離れた埼玉県与野市にある間組の大宮第一工場でもほぼ同じ時刻に爆発が起こっている。ここは、人のいない場所での爆発だったため、窓ガラスなどが破損する程度で済んだ。 犯行声明は、朝日新聞社宛てに郵送されてきた。そこには、週刊誌の活字を切り貼りしてつくられた簡単な文章が書かれていた。 〈わが部隊は、キソダニ、テメンゴール作戦の一端を担い、間組(6階)に対して爆破攻撃をおこなった。2月28日 東アジア反日武装戦線〝さそり〟〉 それは、三菱重工爆破事件の時とは違い、実に簡潔なものだった。 間組が狙われたことから、キソダニとは、長野県の木曾町に戦時中に間組が建設した御岳水力発電所のことを指しているに違いなかった。この建設現場に動員された中国人労働者たちが「間組に搾取された」と犯人グループは言いたいのだろう。
基礎調査もおこなわれた。大道寺将司の出身校は釧路湖陵高校であり、二浪の後、昭和四十四年に法政大学文学部に入学したことがわかった。しかし、卒業はしておらず、なんらかの理由で、途中で退学したようだ。 大学には進学していない小樽出身の佐々木と、将司がどこで接点を持ったのかは謎だ。 将司の妻・あや子は、将司と同じ釧路湖陵高校の出身で、二人はクラスメートだったらしい。目鼻立ちの整った彼女は、高校時代から人気者で、現役で星薬科大学に合格。卒業後、薬剤師となり、文京区本郷の武藤化学薬品という薬品会社に勤務していた。 二人は、二年前に結婚している。大道寺夫婦と佐々木とのつき合いの原点はわからないが、どこかで、接触点があったはずである。
午後〇時二十五分頃、三菱重工本社ビル正面玄関前にタクシーが到着すると、大道寺が爆弾二個を持って下車し、片岡はそのままタクシーで東京駅まで行って、ほかのタクシーに乗り換え、御茶ノ水のパーキングメーターまで戻った。もとのスバルを運転して、片岡は南千住の駐車場に引き返している。 一方、爆弾二個を持った大道寺は、三菱重工ビル正面玄関前の左側のフラワーポット脇にこれを置き、そのまま重工ビルに玄関から入っている。ビルの中を通り抜けて反対側の道路に出た大道寺は、東京駅から国電を利用して御茶ノ水まで行き、すでに爆発が起こったあとの午後一時前に何くわぬ顔で職場に戻っている。 見張り役となったのは、妻の大道寺あや子である。正午頃、本郷三丁目の勤務先を出て地下鉄丸ノ内線で東京駅に来た彼女は、午後〇時二十分ごろ現場に到着し、三菱重工ビルの正面玄関脇で見張りをおこない、夫の将司が爆弾を仕掛けるのを確認し、およそ五分間、ようすを見ている。
高校の先輩が大道寺と大道寺の嫁で共犯だった。
〈太田が東京都内で起きた連続爆破事件に何らかのつながりがあるのではないか、と捜査当局がみていたのは、三菱重工業爆破決行を宣言した「東アジア反日武装戦線」の〝狼〟グループが、今年三月にアングラ出版した爆弾教典「腹腹時計」の中の暴力革命理論が、太田のいう「窮民革命論」にそっくりだったため。ところが、太田が警察に出頭する直前までアジトにしていた東京・北千住のアパートに「腹腹時計」はあったが、コピーされたもので、いたるところに赤線や疑問符が記されてあったことなどから「腹腹時計」は太田が書いたものではないことがわかった。また、これまでの言動からみて、太田は横のつながりを持つグループ組織に指示を与え、動かすようなことは、あまり考えられない──などの点から、同警備部は、東京の二つの爆破事件については、まず無関係と断定した〉