公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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今読んでる『絶望の精神史 - 体験した「明治百年」の悲惨と残酷』金子光晴

2018-03-19 19:55:00 | 今読んでる本

光文社カッパブックスといえば、必ずどこの家にも数冊あった有名なシリーズであり、今は大御所と言われる竹村健一


竹村 健一(たけむら けんいち、1930年〈昭和5年〉4月7日[1] - 2019年〈令和元年〉7月8日)は、日本のジャーナリスト、政治評論家[2]。1989年第5回「正論」大賞受賞[3][1]。

『現代日本人名録2002』3 p343 (2000年1月)
^ 自著では職業の肩書きはないと語っており、名刺にも「竹村健一」とだけ表記している(『この人が忘れられない 私が出会った素晴しき一流人間37人』)
^ 正論大賞の歴史


も「おとなの英語」と言うスラングとお色気ものを書いている。庶民派教養新書と言う分野は冠婚葬祭マナーから、占いの類いから、記憶術、三笠宮崇仁様のオリエント教養本まで裾野が広かった。にんにく健康法などは今も続く。五味康祐『五味マージャン教室 - 運3技7の極意』、野末陳平『姓名判断 - 文字の霊があなたを支配する』なんかかなりいかがわしかった。『パンツをはいたサル人間は、どういう生物か』など一発で栗本慎一郎を有名にした。多湖輝『頭の体操』シリーズに比べて、80年代にはもうカッパブックスを手に取ることはなかった。最後の印象は盛田昭夫・石原慎太郎『「No(ノー)」と言える日本 - 新日米関係の方策(カード)』(1989年)くらいかもしれないが立ち読みだった。

この古本は昭和40年発行でたまたま初版である。月刊宝石の創刊号の宣伝まで入っていて、タイムカプセルを開けたと同じ感動が味わえる。




金子光晴はどういう時代に青年になったのか?小学校三年頃に藤村操(ふじむら みさお、1886年(明治19年)7月20日−1903年(明治36年)5月22日)の人生不可解の華厳の滝自殺事件があった。当時のつまり20世紀の始まり(1901年 金子光晴6才)の日本青年は、銀行頭取の子息の恵まれていた将来に世間的には不安はないと認められていた、一高生であっても絶望が希望であった。真似する者も出た。大切なことは金子光晴にとって絶望を目撃したのがリアルタイムであるという事である。私の12才のリアルタイムで見た絶望は三島由紀夫の襲撃後の割腹自殺(1970年(昭和45年)11月25日)であった。これは、絶望の演劇的な有り様の発見であった。

三島由紀夫事件はこの本が出てから5年後であるから、実に予言的な本である。もちろん初めて読むが、時代が明治100年に向かっていた時の日本人の精神の博物的名著だと思う。三島由紀夫の気になる言葉がある。『恐るべき戦後民主主義』というパラグラフに『なるほど私は小説を書きつづけてきた。戯曲もたくさん書いた。しかし作品をいくら積み重ねても、作者にとっては、排泄物を積み重ねたのと同じことである。その結果賢明になることは断じてない。そうかと云って、美しいほど愚かになれるわけではない。美しいほど愚かという言葉は言葉のいらない美しさ、真善美のいずれでもない妙である。と私は三島由紀夫を解釈する。《私の中の25年 予言といま~果たし得ていない約束》作品を排泄に例えている。言葉を操る矛盾に気づいていた。


 

今年は明治150年だが、明治を意識する日本人は殆どいない。維新神話の中にだけ生きる日本人の英雄の動機が何んであったかさえ思い出せない。希に中江有里が『慶喜の城脱出にはさまざまな評価があるだろうが、脱出の前月まで外交を行い、将軍としての責務を果たそうとしていたことは間違いない。脱出の経路はある程度たどれても、脱出中の慶喜の心境をたどるのは難しかった。』と産経に寄稿するくらいだ。昭和もわかりにくいが、維新前後はもっとわからない。

青春時代を大正期で過ごした金子光晴もヨーロッパに向かう船の上、心の中は江戸を壊した明治であった。ヨーロッパで感じるのは、親の世代が自然に持っていたもの、フランス人の彼らが賞賛する江戸芸術との文化的縁を失ってしまった絶望感。

明治はやたらと養子縁組が多いが、次男三男は養嗣子に出された時代の背景に嗣子は兵役を免除されていた(後に廃止)からだったことがよく分かる。時代の断絶が大きすぎて当時の親子の対立は抜き難いものであったらしい。江戸の情緒と人倫の折り目が失われて、婚姻も出世も金次第の世の中になっていたことに明治の大人は成功者と吾輩と自分を名告るヒゲの男たちを蔑みひねながら、成功者のお零れを頂戴しようと借財に勤しむ卑屈な時代だった、そんな時代に明治の半ば生まれの若者たちは居場所の特殊な有り様から日本が狭いと感じていた。井上貞治郎の(いのうえ ていじろう、明治14年(1881年)8月16日 - 昭和38年(1963年)11月10日)若い時の放浪もそういう時代をよくうつしている。金子光晴(かねこ みつはる、1895年(明治28年)12月25日 - 1975年(昭和50年)6月30日)は井上よりも14歳下の世代。宮沢賢治よりは1歳年上だがほぼ同世代。
杉山 茂丸(すぎやま しげまる、元治元年8月15日(1864年9月15日) - 昭和10年(1935年)7月19日)がちょうど彼らの親の世代に当たる。ということは杉山の長男、夢野久作(ゆめの きゅうさく、1889年(明治22年)1月4日 - 1936年(昭和11年)3月11日)は金子光晴の6歳上で、星、井上、(夢野、石原)、(金子、宮沢)と世代が激動の明治の22年間に並ぶ。どちらも幻視的絶望者である夢野久作と石原莞爾とは同い年である。夢野久作の父親に対する絶対尊敬ぶりと、金子や宮沢賢治などの同輩の親世代との対立溺愛ぶりを比較すると、情報に接するチャンスのあった階層と世代の分裂に過ぎなかったように思う。井上の泥をすすっても這い上がる一発根性とその後の幸運と努力による成功の反対側に同じ世代の若者が悲嘆して死んでいる。(私の高祖父は天保5年生まれ、近藤勇と同い年。曾祖父は文久元年桜田門外の変の翌年生まれ。祖父は金子光晴とほぼ同じ世代の明治30年生まれ

親の世代の考えていた4つの禁忌は、肺病、文学、社会主義、恋愛だ。どんなに豊かな家に生まれても、どれも親の世代の次世代育成プランの大障害になる。柳原白蓮(やなぎわら びゃくれん、1885年(明治18年)10月15日 - 1967年(昭和42年)2月22日)は井上と夢野の間の世代だが、象徴的な没落伯爵と炭鉱成功者の後添え売却と自由恋愛と文学、宮崎滔天の長男と恋仲になった今で言う不倫と逮捕される社会主義と言う具合でありながら、戦後は元華族の御意見番に収まっているジェットコースターのような価値観の起伏を生きたのは肺病だけにはならなかったという幸運から天に与えられたものだったかも知れない。

金子光晴は明治44年の青春時代を16歳で見ている。日本経済が背伸びする比較的いい時代だ。私は16の時昭和49年の日本を見た。日本経済は私の生まれた1958年(昭和33年)から1973年(昭和48年)まで、15年間平均年率9.5%にのぼる高い成長率を持続した後で、1971年(昭和46)のニクソン・ショックから1973年(昭和48年)の第1次石油ショックまでの3年間を経て大人達は将来に絶望していた。戦後日本経済が沈む時だった。
明治44年、しかし戦争に次ぐ戦争で第一次大戦はこのまま戦争が続けばよいと思うくらいに膨張的経済だったため、彼ら青年に第一次大戦後の展望は絶望的なくらい先のないものだった。そこで欧州へ出かける青年が稀ではなかった。井上より更に上の世代、星 一(ほし はじめ、1873年(明治6年)12月25日 - 1951年(昭和26年)1月19日)の密航浮浪者から学問で身を起こす世代の明治27年の冒険から20年経過していて、「赤ゲット物語」など洋行の失敗も出版されていた。大正時代に充満していた自由は、明治の消長とシンクロしていたとともに、日本人の日本人嫌悪が青年の心の奥隅に劣情とともに青年を絶望させた。文学と悪所は肺病と同じくついて回っていた。

彼らは皆、肺病で死んだ。

石川 啄木(いしかわ たくぼく、1886年(明治19年)2月20日 - 1912年(明治45年)4月13日)金子の9歳上 柳原白蓮とは学年は同級生。
高山 樗牛(たかやま ちょぎゅう、 1871年2月28日(明治4年1月10日) - 1902年(明治35年)12月24日)
国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)田山花袋は友人の柳田國男の兄の布川の医院を、明治30年4月3日に国木田独歩とともに訪れ、宿泊している『野の花』(明治34年・新聲社刊)。
北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日(明治元年11月16日) - 1894年(明治27年)5月16日)

肺病が絶望という時代があったことも日本人は忘れている。そして関東大震災が大正期の自由奔放にとどめを刺した。日本は不運なことに世界不況と生糸暴落、農業不作不況が続き、日本の隅々まで借金が積み上がり絶望が広がってしまった。その上に英米蘭による経済封鎖により、富の生産が自然の不運を上回ることは大東亜戦争が終わるまでやってこなかった。様々な絶望はあったが、日本人を隅のほうまで絶望させたのは、文学ではなく経済の行き詰まりだった。他方恋愛に明治の男の価値観はめっぽう弱かった。財力に比例する人間の繁殖という原始的だが筋の通った男女の関係を近代の一対一の男女の関係に置き直して財力を逆転しようにも、惚れた弱み以外は優勢点がなかった。金子光晴は帰る女も無くし、また欧州を放浪する。

1924年(大正13年) 1月、東京に戻る。小説家志望の森三千代と知り合い、恋愛関係になる。7月には三千代が妊娠のため東京女子高等師範(現:お茶の水女子大学)を退学。室生犀星の仲人により結婚する。
1925年(大正14年) 3月、長男・乾が誕生する。翻訳で生計を立てるが、困窮した生活が続く。3月、『ブェルハレン詩集』訳(新潮社)。8月、『近代仏蘭西詩集』訳(紅玉堂書店)、モーリス・ルブラン『虎の子』訳(紅玉堂書店、怪盗ルパンシリーズ)を刊行。
1926年(大正15年) 3月、夫婦で上海に1ヵ月ほど滞在し、魯迅らと親交をかわす。
1927年(昭和2年) 国木田虎雄夫妻と上海に行き3ヵ月ほど滞在。横光利一とも合流して交流を深める。この間に三千代が美術評論家の土方定一と恋愛関係に陥る。5月、詩集『鱶沈む』(有明社出版部、森三千代との共著)を刊行。
1928年(昭和3年) 小説『芳蘭』を第1回改造懸賞小説に応募したが、横光利一の支持を得たものの次点となり、これを機に小説から離れる。9月、三千代との関係を打開するため、アジア・ヨーロッパの旅に出発。はじめの3ヵ月ほどは大阪に滞在し、後に長崎から上海に渡る(上海にはこれより5ヶ月に渡って滞在)。
1929年(昭和4年) 上海で風俗画の展覧会を開いて旅費を調達し、香港へ渡る。のちにシンガポールでも風景小品画展を開き、ジャカルタ、ジャワ島へ旅行。11月、一人分のパリまでの旅費が貯まり、三千代を先に旅立たせる。






望月衛『欲望 - その底にうごめく心理』(1955年)
渡辺一夫『うらなり抄 - おへその微笑』(1955年)
本多顕彰『指導者 - この人びとを見よ』(1955年)
岡本太郎『今日の芸術 - 時代を創造するものは誰か』(1955年)
安田徳太郎『日本人の歴史〈第1〉万葉集の謎』(1955年)
三笠宮崇仁『帝王と墓と民衆 - オリエントのあけぼの』(1956年)
加藤正明『異性ノイローゼ - 歪んだ性行動の心理判断』(1956年)
坂本藤良『経営学入門 - 現代企業はどんな技能を必要とするか』(1958年)
林髞『頭脳 - 才能をひきだす処方箋』(1958年)
安本末子『にあんちゃん - 十歳の少女の日記』(1959年)
藤本正雄『催眠術入門 - あなたも心理操縦ができる』(1959年)
林髞『頭のよくなる本 - 大脳生理学的管理法』(1960年)
川喜田二郎『鳥葬の国 - 秘境ヒマラヤ探検記』(1960年)
岩田一男『英語に強くなる本 - 教室では学べない秘法の公開』(1961年)
南博『記憶術 - 心理学が発見した20のルール』(1961年)
黄小娥『易(えき)入門 - 自分で自分の運命を開く法』(1962年)
浅野八郎『手相術 - 自分で、自分の成功を予知できるか』(1962年)
小池五郎『スタミナのつく本 - 体のリズムに乗る栄養生理学の法』(1962年)
郡司利男『国語笑字典 - カッパ特製』(1963年)
占部都美『危ない会社 - あなたのところも例外ではない』(1963年)※「カッパ・ビジネス」
猪木正文『数式を使わない物理学入門 - アインシュタイン以後の自然探検』(1963年)
三鬼陽之助『悲劇の経営者 - 資本主義に敗北した男の物語』(1964年)※「カッパ・ビジネス」
諸星龍『3分間スピーチ - 一人一人の心に、強烈な感動を』(1964年)
澁澤龍彦『快楽主義の哲学 - 現代人の生き甲斐を探求する』(1965年)
後藤弘『バランスシート - 経営者の虚々実々を見破る本』(1965年)※「カッパ・ビジネス」
金子光晴『絶望の精神史 - 体験した「明治百年」の悲惨と残酷』(1965年)
五味康祐『五味マージャン教室 - 運3技7の極意』(1966年)
門馬寛明『西洋占星術 - あなたを支配する宇宙の神秘』(1966年)
野末陳平『姓名判断 - 文字の霊があなたを支配する』(1967年)
多湖輝『頭の体操』シリーズ(1967年 - 2005年)※第4集までミリオンセラー
岩田一男『英単語記憶術 - 語源による必須6000語の征服』(1967年)
佐賀潜『民法入門 - 金と女で失敗しないために』(1968年)※「カッパ・ビジネス」
佐賀潜『刑法入門 - 臭い飯を食わないために』(1968年)※「カッパ・ビジネス」
佐賀潜『労働法入門 - がっぽり給料をもらうために』(1968年)※「カッパ・ビジネス」
佐賀潜『道路交通法入門 - お巡りさんにドヤされないために』(1968年)※「カッパ・ビジネス」
吉岡力『歴史パズル - 人間はどこまで進歩したか』(1968年)
樋口健治『初歩自動車工学 - なぜ動く・なぜ走る・なぜ故障する』(1969年)
塩月弥栄子『冠婚葬祭入門 - いざというとき恥をかかないために』(1970年)※「カッパ・ホームス」
塩月弥栄子『続冠婚葬祭入門 - いざというとき恥をかかないために』(1970年)※「カッパ・ホームス」
石原慎太郎『スパルタ教育 - 強い子どもに育てる本』(1970年)
浜尾実『女の子の躾け方 - やさしい子どもに育てる本』(1972年)
羽仁進『放任主義 - 一人で生きる人間とは』(1972年)
渡辺正『にんにく健康法 - なぜ効く、何に効く、どう食べる』(1973年)※「カッパ・ホームス」
手塚治虫『マンガの描き方 - 似顔絵から長編まで』(1977年)※「カッパ・ホームス」
五味康祐『五味手相教室 - あなたには、どんな幸せが待っているか』(1978年)
森毅『計算のいらない数学入門 - 「できる」から「わかる」へ』(1980年)※「カッパ・サイエンス」
小室直樹『ソビエト帝国の崩壊 - 瀕死のクマが世界であがく』(1980年)※「カッパ・ビジネス」
小室直樹『アメリカの逆襲 - 宿命の対決に日本は勝てるか』(1980年)※「カッパ・ビジネス」
栗本慎一郎『パンツをはいたサル - 人間は、どういう生物か』(1980年)※「カッパ・サイエンス」
加山雄三『この愛いつまでも - 若大将の子育て実戦記』(1981年)※「カッパ・ホームス」
川上哲治『悪の管理学 - かわいい部下を最大限に鍛える』(1981年)※「カッパ・ビジネス」
上野千鶴子『セクシィ・ギャルの大研究 - 女の読み方・読まれ方・読ませ方』(1982年)※「カッパ・サイエンス」
内藤正敏『鬼がつくった国・日本 - 歴史を動かしてきた「闇」の力とは』(1985年)※「カッパ・サイエンス」
阿川弘之『国を思うて何が悪い - 一自由主義者の憤慨録』(1987年)※「カッパ・ホームス」
盛田昭夫・石原慎太郎『「No(ノー)」と言える日本 - 新日米関係の方策(カード)』(1989年)※「カッパ・ホームス」
石原慎太郎・渡部昇一・小川和久『それでも「No(ノー)」と言える日本 - 日米間の根本問題』(1990年)※「カッパ・ホームス」


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