公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

ひさしぶりにマキャヴェッリについて

2011-01-01 00:00:00 | マキャヴェッリ
 最近まるでマキャヴェッリを語っていないので、語ってみよう。

  
「支配者は、キツネの如く狡猾で、ライオンの如く獰猛でなければならない。支配者が常に善良であれば滅びてしまうからだ。」

 マキャヴェッリの有名な言葉だ。リーダーが善良である前に政体を機敏に維持しなければならないと考えたのはそういう時代(毒殺と陰謀、投獄と権威)だったからとも言えるが、現代政治に必要の無いリーダー属性では無いとも言えないだろう。

 小沢一郎の項で、現実政治をみすえている小沢を評価したが、日本人は彼を受け入れないということも述べた。そういう不幸な人物は日本の歴史に山ほどいる。太田道灌もその一人、下克上の代名詞北条早雲も、明智光秀も小早川秀秋も日本人は受け入れない。
 そこがマキャヴェッリが最高の賛辞を贈る冷酷な謀略家チェーザレ・ボルジア(ヴァレンティーノ公)とロドリーゴ・ボルジア(ローマ教皇アレクサンデル6世)の社会背景とは異なる。(明智光秀はそれを知って、身分を隠して天海と名乗って生き延びたという説が今でも語られる。)天海僧正の歴史上の真偽はわからないが、昔から今に至るまでの、日本人がカリスマやリーダーに求めてきた属性がわかる。それは浄化だ。リーダーを支持する事で自らの浄化と正統を求める。残念ながら小沢一郎は浄化属性に縁がなく、リーダーにふさわしくない。凄惨な幕末を生き抜いた元勲はリーダーを吉田松陰に求めた。なぜなら誰もがどこかに所属し何かの利害を背景に政敵と戦い、現実政治に汚れていたからだ。

 ここまで述べればもうわかるだろうが、日本人は政治に不可能を求める伝統があるのだ。複雑な現実を小気味良く捌き、かつ手を汚さない人物をリーダーに求める。神のような隔離された存在をあがめる。だから日本のリーダーは非業の死の後に創られ、神格化される

 あまり言いたくはないが、日本人が本当に欲しているのは生きたリーダー、スターではない。
 日本の政治家の非業の死は三島由紀夫以来ないとおもう。その後の日本の政治が三島を神格化しなかったのは、三島も楯の会も当時の保守政治とはあまりに遠い世界に身を置いていたからだ。三島由紀夫の死は後に続く事が出来ない政治メッセージで終わってしまった。

 マキャヴェッリに戻るが、合理的精神によれば、政体の中核支配を持たない政治家にはどんな理念も善意もうわごとである。それでもなおアニミズムのように理念と善意の混じったうわごとを語る狂気の人物を好む日本人は政治的にも特異な民族であろう。



 
 

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