日本遺産のホームページにはあっさりこう書かれているが、合わせて5000万フランもの外債起債がよくできて5%償還できたものだ。当時の海軍予算が総額1,500万円だった時代の約2,000万円の借款 第一次世界大戦時のフラン安に日本の国運を感じる。
債権販売シンジケートとの間に三井財閥の信用が挟まってはいるが、時は1909年、日露戦争に勝った勢いか?西郷隆盛の息子はこんなところで活躍していた。信用している「カウンターパート」あるいは肉親がフランスに居たのかもしれない。
第2代市長の西郷菊次郎が計画を引き継ぎ、「京都市三大事業」の一環として、第2疏水建設が着工されました。
三大事業全体の当初予算は総額約1,716万円であり、これは当時の市の税収の約34倍にあたりました。そのため、第1疏水のように市民に税負担を求めることは困難でした。
そこで、西郷市長は、パリで4,500万フランの外債を発行し、外国の銀行や投資家から資金を集めました。さらにスイスで500万フランを追加発行し、これらの資金を元に工事を行ったのです。
こうして明治45(1912)年に完成した第2疏水の総工費は、当時の金額で約433万円でした。
当初日露戦争後の世界不況によって欧米での金融事情が悪化していたことから、事業の決定から遅れた1909年(明治42年)7月から、利子は5パーセントで、10年据え置きの後に20年で償還するという内容で4500万フラン(日本円で1755万円)の外債の販売が始まった。当初分に加え、1912年には500万フランが追加販売されている。
返済資金として期待された市電の営業成績は良好で、第一次世界大戦後のフラン安の影響もあり、償還期間の30年を繰り上げて返済することになった。