なぜいまごろ梶山季之を読んでいるかというと、旧投稿のクラブ順子の説明に出てきた小説家のなかでか梶山季之だけ読んだ本がないことに気づいたから。 天才劇画絵師上村一夫が唯一頼み込んで絵にしたいと申し出た作家が梶山季之『苦い旋律』だけにぜひ漫画の方も読みたいと思った。しかも上村と同じく享年45歳梶山もまた惜しまれつつ早死にしているので気になっていた。存命だったら数え90歳、今年は没後44年 45回忌なのか?梶山季之(かじやま としゆき、1930年1月2日 - 1975年5月11日)
若い方々は知らないかもしれないが、赤いダイヤとは小豆(あずき)のことだ、関東向けは北海道が今でも産地ブランドとして抜きんでていて、特に十勝産大納言は名高く、ここに描かれた前年昭和28年は全国的冷害と水害の年、昭和29年は北海道は冷害が続いた時代で、物価4.5%も下落する緊縮デフレで最悪の年だった。中国産は共産圏を封じる国際情勢(ココム)で輸入されていないころだから、小豆相場はほとんど北海道の気候で決まっていた。故に投機の対象として物色されて不況期しばらく世の中を騒がせていた。オリンピック不況から証券不況期の昭和40年頃は北海道の親戚の知り合いで2億円ほど借金して破産したひともいたのでよく覚えている。北海道の東部の畑作は二十四節季でいうと小満(今年は5/21)から寒露(今年は10/8)の間(作付けには1年の八分の三しか太陽が利用できない)という短さで勝負するので、同時作付けする保険作物がない。農家も相場が上がると次年度は作付けを増やすギャンブル性を好む農家が多かった。霜の害で破産というケースも大いにあった。わが父の拓いた農地は小豆を作付けするほど温暖でも地味豊穣でもなかったので小豆はやってなかった。それでもこの物語の冷害で我が家は農協に大きな借金をかかえ、農業をあきらめざる得なくなり、農協に借金を残して(最終的には13年後土地を売った)離農した。
共産党の組織活動は、レーニン以来の伝統で機関紙配布活動と表裏一体になっている。その再建活動も、先の袴田里見の記録にあるように、『赤旗』の購読者名簿が手がかりになっているくらいだから、ここで『赤旗』の発刊状況について述べておこう。『赤旗』の発刊状況を述べていくと、それがそのままこの時期の共産党組織の消長を述べることになる。 『赤旗』は、中央委員たちが直接執筆し、その印刷と配布は中央事務局とそれに直属する印刷局の手によってなされた。もっとも、印刷局といっても、初期はガリ版刷りであるから、ヤスリと鉄筆と謄写印刷機があるだけでよい。 一九二八年(昭和三)二月一日に創刊号が出され、三号まで発刊したところで三・一五検挙にぶつかる(この時期は月二回刊)。この日発刊予定だった『赤旗』第四号は、一部も配布されないままに押収されてしまった。 次に、中尾勝男、門屋博、浅野晃の三名が中央事務局員となり、田端、小石川、本郷、富士見町などの下宿、待合を転々として、〝移動本部〟と称した。しかし、この移動本部のメンバーは三月末から四月はじめにかけて全員検挙。『赤旗』第五号は発刊したが、第六号は原稿の段階で押収されている。次は、岩田義道が中心になって新しい事務局を作った。岩田の事務局は約四ヵ月間継続し、この間、七号から二十二号までの発刊に成功している。しかし、三・一五事件前は八百部の部数を配布していたのに、この時期は百三十部印刷して、配布残が五、六十部出るほどにその組織は弱っていた。百人単位の党組織が十人単位にまで落ちてしまっていたのである。この時期がどうやら、共産党の組織力が最低に落ちこんだ時期らしい。この時期の指導部を担った一人である国領伍一郎(1932年、懲役15年の刑の言い渡しを受け、上告審で最終的に刑が確定、非転向を貫き、獄死し)は後にこう証言している。「問 被告ガ昭和三年十月ニ検挙サレル直前ニ於ケル日本共産党ノ組織力及細胞ヤグループ数ハ如何。 答 細胞及グループ数ガ二十一、党員数八十九名、此外ニ未ダ正式ニ入党サセテ居ナイガ入党サセル事ニ決定シテ居タ党員ガ十八名、非党員ニシテ配布網ヲ通シテ渡シテ居タ赤旗が百十三、党員及赤旗配布網ノアツタ地方ハ小樽、函館、青森、仙台、秋田、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸、福岡、其他五ケ所デアリマスガ、此五ケ所ハ四・一六事件ニモ検挙サレテ居ナイ様デスカラ云ハナイ事ニシマス。党員数ハ同年六月ニ比較シテ約三倍ニ達シテ居マス」(予審訊問調書)この証言から推すと、六月ころの党員数は二十人台であったとみられる。人数からだけみると、これは現在の赤軍派程度(赤軍派も往時は三百人を越えていた)の組織である。何度もくり返すが、共産党の影響力、ポテンシャルな組織力は現在の過激派とはくらべものにならないほど大きかった。しかし、その組織実体はこんなものだったのである。『日本共産党の研究』より田中はこの後の再建共産党の委員長田中 清玄(たなか せいげん、1906年3月5日 - 1993年12月10日)は日本の実業家、政治活動家、CIA協力者[¥]フィクサーともいわれる(世間が言っているだけでCIA周辺者ということだろう)。1906年3月5日、北海道亀田郡七飯村(現七飯町)で出生。1919年4月、旧制函館中学に入学。亀井勝一郎 や今日出海や大野一雄とは同級生だった。 1930年1月、和歌山二里ケ浜で日本共産党再建大会。田中はこれをきっかけに、コミンテルン国際連絡機関で中国共産党を経由したオムスのルートをつかって、資金・情報収集を始め、当時のコミンテルン執行委員会書記長並びにフィンランド共産党創立者オットー・クーシネン、コミンテルン極東部長カール・ヤンソン€とも連絡をつける。転向後共産党活動家の小宮山ひでと獄中結婚。ひではその後石橋湛山の東洋経済新報社記者として上海に赴任。尾崎秀実やアグネス・スメドレーと親交したコミンテルン謀略のパイプ。 「おまえのような共産主義者を出して、神にあいすまない。お国のみなさんと先祖に対して自分はは責任がある。また早く死んだおまえの父親に対しても責任がある。自分は死をもって諌める。おまえはよき日本人になってくれ。私の死を空しくするな」という遺書を残して母親は自決した。 「私の転向は母の死によってもたらされた心中の疑念がしだいに膨れあがり、私の中で基層に潜んでいた伝統的心性が目を覚まし、表層意識に植えつけられたマルクス主義、共産主義という抽象的観念を追い出した」と田中自伝に書いてる。 転向後は政治活動家となり、戦後は実業家として三幸建設社長、光祥建設株式会社社長をつとめる。田岡と田中は知り合い、£田岡は政治は田中に任せ、自分はヤクザを取り仕切ると決めた「田中清玄自伝」€。ロイズ保険の会員でもあり、日本人でロイズの会員になれたのは、田中清玄と南方哲也(元長崎県立大教授。南方熊楠の大甥)のみと言われている。モンペルラン・ソサイエティー会員。1993年12月10日、脳梗塞で死去。 [¥] ^ ティム・ワイナー「CIA秘録」文藝春秋 ^ 角間隆 (1979). ドキュメント日商岩井. 徳間書店. ^ 川端治 (1963). 自民党 その表と裹. 新日本出版社. €山口さんとCIAの関係はここから始まる。€コミンテルンから来たヤンソン こうした情報、決定の遅れ、水増し報告の害をなくすために、コミンテルンから代表が日本に派遣されてくる。これがヤンソンという男で、日露国交が回復して、この年開設されたばかりのソ連大使館の書記官の身分をもち、同時にプロフィンテルン代表をかねていた。 日露国交回復の基本条約には、共産主義の宣伝禁止の一項があったから、ヤンソンの活動は条約違反になる。しかし、三・一五検挙でその活動が明るみに出て外交問題に発展しそうになるまでは、かなり露骨に大使館を通じての共産党指導と援助とがおこなわれていた(それ以後は、再び上海経由でコミンテルンとの連絡がとられるようになる)。 ヤンソンは古くからの革命家で、革命当時はシベリア流刑になっていたが、革命後は、アメリカ、カナダ、イタリアなどを股にかけてコミンテルンの国際オルグとして活動していた。日本の革命家とはケタちがいの活動歴があり、これ以後、日本の指導者たちは何ごとによらずヤンソンと協議して活動するようになる。この時期の党活動について述べた徳田球一など当時の党幹部の予審調書を読んでいると、「同志ヤンソンと協議して……」というくだりがうんざりするほど出てくる。それを見ていくと、ヤンソンの指示、指導なしになされた活動はほとんどなかったといっても過言ではないようである。 民主集中制の原則のもとでは、コミンテルン中央を代表するヤンソンは、コミンテルン支部の指導部には絶対の指導権を持っていた。ヤンソンへの活動報告と方針協議は、日本の指導部へ義務づけられていた。またヤンソンは日本の中央委員会に出席する権利があったし、必要があればいかなる党員とも会見できる権限ももっていた。そして、活動費はすべてヤンソンが供給していた。こうした背景の下では、ヤンソンに頭が上がるわけはない。 この時期、日本の党は正式に結成されていない。党が正式結成されれば、コミンテルンから一定の予算が割当てられ資金が供給されるが、それまでは必要に応じて具体的な運動に対して資金を交付するということだった。
ちなみに梶山季之はユダヤ人についてこう書いている。
『ユダヤ人について』(サンデー毎日・昭和48年4月8日号)
《私は、ひょんなことから、ユダヤ人について興味を持ちはじめ、今日に到っている。 いろいろと文献も集め、外人の話も聞いたりしているが、結論を先にいうと、おそらく百年後には、 地球は彼らによって征服されるであろうことだ。》
梶山ではないが、私自身は拓銀(北海道拓殖銀行)の破綻も遠因はダイヤモンド相場の覇権のため拓銀をメインバンクとするある会社(世界的なダイヤモンドのシンジケートであるデ・ビアスが扱うダイヤモンドのうち、 30%が同社に卸されていた)を潰すためだったと思っている。
読了 取材の大きさ深さ並外れている。 この文庫版の解説が
佐高 信(さたか まこと、1945年1月19日 - )は、日本の評論家、東北公益文科大学客員教授。週刊金曜日編集委員。「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」共同代表。先住民族アイヌの権利回復を求める署名呼びかけ人 [1]をつとめる。山形県酒田市出身。
世間ではこの作品が最高傑作と言われている。佐高は梶山が田中清玄との交友関係があったとしている。佐高のこの解説の目的は右翼との交流があった梶山として描いて作品価値を貶めることにある。そして田中清玄の秘密の口述テープを遺品として譲る約束は梶山が先に死んでしまい果たせなかった。その後も発表されていないが、本当に存在するのか?と思っていたら、なんと自伝を本にした大須賀瑞夫が『評伝田中清玄』で発表している。
田中 清玄(たなか せいげん、1906年3月5日 - 1993年12月10日)は日本の実業家、政治活動家、CIA協力者[¥]フィクサーともいわれる(世間が言っているだけでCIA周辺者ということだろう)。1906年3月5日、北海道亀田郡七飯村(現七飯町)で出生。1919年4月、旧制函館中学に入学。亀井勝一郎 や今日出海や大野一雄とは同級生だった。 1930年1月、和歌山二里ケ浜で日本共産党再建大会。田中はこれをきっかけに、コミンテルン国際連絡機関で中国共産党を経由したオムスのルートをつかって、資金・情報収集を始め、当時のコミンテルン執行委員会書記長並びにフィンランド共産党創立者オットー・クーシネン、コミンテルン極東部長カール・ヤンソンとも連絡をつける。転向後共産党活動家の小宮山ひでと獄中結婚。ひではその後石橋湛山の東洋経済新報社記者として上海に赴任。尾崎秀実やアグネス・スメドレーと親交したコミンテルン謀略のパイプ。 「おまえのような共産主義者を出して、神にあいすまない。お国のみなさんと先祖に対して自分はは責任がある。また早く死んだおまえの父親に対しても責任がある。自分は死をもって諌める。おまえはよき日本人になってくれ。私の死を空しくするな」という遺書を残して母親は自決した。 「私の転向は母の死によってもたらされた心中の疑念がしだいに膨れあがり、私の中で基層に潜んでいた伝統的心性が目を覚まし、表層意識に植えつけられたマルクス主義、共産主義という抽象的観念を追い出した」と田中自伝に書いてる。 転向後は政治活動家となり、戦後は実業家として三幸建設社長、光祥建設株式会社社長をつとめる。田岡と田中は知り合い、£田岡は政治は田中に任せ、自分はヤクザを取り仕切ると決めた「田中清玄自伝」€。ロイズ保険の会員でもあり、日本人でロイズの会員になれたのは、田中清玄と南方哲也(元長崎県立大教授。南方熊楠の大甥)のみと言われている。モンペルラン・ソサイエティー会員。1993年12月10日、脳梗塞で死去。 [¥] ^ ティム・ワイナー「CIA秘録」文藝春秋 ^ 角間隆 (1979). ドキュメント日商岩井. 徳間書店. ^ 川端治 (1963). 自民党 その表と裹. 新日本出版社. €山口さんとCIAの関係はここから始まる。
£不思議なことにこれだけの文献を参考にして日本の闇を書き続けている宮崎学が著した『山口組と日本――結成103年の通史から近代を読む 』(祥伝社新書)には田中清玄と田岡の接点は一つも出てこない。そのくらい向こう側の知られざる世界なのであろう。
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猫組長 違いますね。昔の親分には、地名がついていました。有名どころでは「〝国定〟忠治」「〝清水〟の次郎長」ですが、地名がつくことが一家の親分の誇りでした。地名とはつまり縄張りのことで、その地域を守ることを許され、守らなければならないという使命を持っていたということです。だから地名がつけられるということは、名誉だったのです。 それを関東ヤクザはずっと継承しているのですが、山口組にはそれがなくて膨張志向が強く、縄張りは拡大していくものだという意識なのです。
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和田信義 『香具師奥義書 』 (文藝市場社 1 9 2 9年 ) 岩井弘融 『暴力日本のやくざ 』 (平凡社 1 9 5 7年 ) 大島藤太郎 『封建的労働組織の研究 』 (御茶の水書房 1 9 6 1年 ) 兵庫県警察本部刑事部捜査第四課 『広域暴力団山口組壊滅史 』 (第一 ~三編非売品 1 9 6 7年 ) 平岡正明 『闇市水滸伝 』 (第三文明社 1 9 7 3年 ) 須藤久 『破邪顕正の浪漫 』 (三一書房 1 9 7 4年 ) 総理府 『同和対策の現況 』 (大蔵省印刷局 1 9 7 7年 ) 藤田五郎 『公安百年史 ―暴力追放の足跡 』 (公安問題研究協会 1 9 7 8年 ) 株式会社上組編 『株式会社上組沿革史 』 (株式会社上組 1 9 7 9年 ) 森川哲郎 『血の宣告 ― ―ドン田岡狙撃事件 』 (三一書房 1 9 7 9年 ) 福武直 『日本社会の構造 』 (東京大学出版会 1 9 8 1年 ) 鈴木達也 『山口組壊滅せず 』 (東都書房刊 、講談社発売 1 9 8 4年 ) 矢野誠一 『女興行師吉本せい ―浪花演藝史譚 ― 』 (中央公論社 1 9 8 7年 ) 松原岩五郎 『最暗黒の東京 』 (岩波書店 1 9 8 8年 ) 山中一郎 『平成ヤクザ ―日本ヤクザに未来はあるか 』 (中央ア ート出版社 1 9 8 9年 ) 黄民基 『奴らが哭くまえに猪飼野少年愚連隊 』 (筑摩書房 1 9 9 3年 ) 佐賀純一 『浅草博徒一代 ―伊地知栄治のはなし 』 (筑摩書房 1 9 9 3年 ) 飯干晃一 『激突 !暴力世界 〈死闘編 〉 』 (角川書店 1 9 9 3年 ) 加太こうじ 『新版 ・日本のヤクザ 』 (大和書房 1 9 9 3年 ) 塚田孝 『近世身分制と周縁社会 』 (東京大学出版会 1 9 9 7年 ) 神田由築 『近世の芸能興行と地域社会 』 (東京大学出版会 1 9 9 9年 ) 山平重樹 『義侠ヤクザ伝 ・藤田卯一郎 』 (幻冬舎 2 0 0 3年 ) 高橋敏 『博徒の幕末維新 』 (筑摩書房 2 0 0 4年 ) 溝口敦 『渡辺芳則組長が語った 「山口組経営学 」 』 (竹書房 2 0 0 5年 ) 竹中労 『完本美空ひばり 』 (筑摩書房 2 0 0 5年 ) 笠原和夫 『 「仁義なき戦い 」調査 ・取材録集成 』 (太田出版 2 0 0 5年 ) 稲葉圭昭 『警察と暴力団癒着の構造 』 (双葉社 2 0 1 4年 ) 廣末登 『組長の娘 ―ヤクザの家に生まれて ― 』 (新潮社 2 0 1 6年 )