公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

誘導する力

2013-05-06 20:27:21 | 日記
建築家内藤 廣が言った言葉に「意気地なしの風景」という言葉がある。都市計画的でないある意味美的符牒の失われた景観破壊を指しているのだが、逆にこれを新しいメタボリズムの実験と考える建築家(北山恒ら)の主張するヴォイド・メタボリズムの主張がある。これは伝統的な日本人が得意とする生成論の建築論における断章ともいえる。

ヴォイドとは空き空間の構造(曖昧な街区輪郭と無定形な小さい住宅スケールと大きなビルディングなどのスケールの共存)ということだが、これは建築基準法やその他の法規という初期条件が与えられた時の誘導という下からのメタボリズムが、ある意味無秩序な開発の様相を呈していることを指している。東京はもはや広大な空地と高層で高密度な構造物を上から創り込むということが限界を示している。この先の社会は永遠に壊し、永遠に創りつづけることはできないだろうし、維持できない構造物はスラムとなってしまう。

誘導する力という本題に入る。これまでの論調の継続から言えば、生成論を根拠に誘導するということの有効性について語ろう。

日本人は江戸時代に一旦、精神的にも社会的にもエコシステムのメタボリズムを完成した。その高度で精密な持続性と文化性には現代のエコシステムさえも追いついていない。江戸の街は、資源のサイクル、社会の再生、身分の再生、職業技術の再生という点で完成されていた。エネルギー革命や科学技術・医療技術こそ遅れていたが、その時代のスケール(エネルギー発生=消費スケール、資源スケール)に適合し最適に体系化されていた。
しかし突然、蒸気機関と発電が当たり前となると、未完成の資本主義社会を輸入せざる得なかった。さらに石油エネルギーの多量消費が高度の物資供給をもたらすと更にどのように都市が資源とエネルギーを受け止め、エコシステムとするかということに、精神的に追いつかなくなってしまった。

エネルギーは無限に供給されるものとして、資源とエネルギーと経済成長率などのスケールの限界について考えない習慣の社会が資源エネルギースケールと社会と精神のスケールを調和させることに<失敗>し続けてきた。今考えなければならないのは、恒久的構造物のミニマムと災害予防という考えに基づいたインフラが取り扱う巨大資源エネルギースケールと、もう少し少ない中規模のエネルギーによって駆動する自己完結スケール、さらには個人が取り扱う小規模エネルギーのスケールを構造と連携で捉え直して都市構造を誘導することだろう。東京の都市構造は人類がはじめて挑戦する下からの都市構造の構築と継続が問われている。

今日本人の誘導する力は、今となっては変更しようのないレガシーインフラの下に支配されたサブスケールをつくるのではなく、独立した自己完結で社会を強靭にするという方向性で試されている。江戸の智慧を使えば、上からの構造の副作用である、計画停電など実施する必要がなくなる。
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