公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

ハンサム 2

2013-05-08 21:32:57 | 今読んでる本
「男てえのは、理屈じゃねえ。おぎゃあと生まれてからくたばるまで、俺ァ男だ、俺ァ男だと、てめえに言いきかせて生きてるもんだ。」天切り松 闇がたり 第二巻 残侠 切れ緒の草鞋 浅田次郎 より

 男のセルフイメージは二十歳(はたち)で固定されると書いたが、正確には二十歳までに固定される。どういう人生を経て、どういう立場になるかは自分一人で決めることはできないが、苦境や困難、挑戦や決断に立ち会うこと無しに、自分の人生は選べないし、そのような忍耐も決断もない空気みたいな立場は何処にもない。

 男が「俺ァ男だ」とセルフイメージを形成するのは、生物学的に男になることと無縁ではない。空気みたいな存在のままでは種付けできないという絶対的壁があるから男という人工的なさやの中に入る。まさか種馬と同じとは認めたくないのだ。もっとも、若い時から種付けの本能を失った男も少数派として存在するが、基本は本来の男の亜種としておけばいい。

 男は生物としては半端者であるがゆえに、壁に対抗する内的セルフイメージを自我にとどめることなく、時にはそれを直に社会に延長する(例えばヤンキー、路上の叫び歌)というのが、男の性(さが)の本当の出処ということだろう。二十歳までの男の登り坂はそれはそれでひとつのハンサムだが、男の性の問題はそれよりもずっと長い下り坂をどうハンサムに過ごすかということだ。むしろギャップは拡大の一途を辿り、そのギャップを代償するかのように自分以外の事物に関わる時間が増えてゆく。組織上の地位、会社、商売、趣味、蒐集、第二の生活、人によっては遊興、ギャンブル、オンナ、見栄。多くの人生は前者と後者の組み合わせで惨めな思いをしている。

 しかし永遠に、それこそ、くたばるまでギャップが埋められないで終わることを覚悟してさえいれば、男の人生も悪いものではない。

「体力が多少落ち、しわが寄るけど、人間なんて年を取ってもずっと『中2』ですよ。自分の一番のお荷物である自分を抱え、ほっつき歩くものではないですか」 島田雅彦 「芥川賞落選作全集」発表にて。

くたばってから先は、ひと様の肥やしになるだけさ。一瞬のハンサムを得ようとして大きな決断ができたなら、結果はともかく、男の人生は幕を引いていい。




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