公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

破壊するというのが上策である

2015-12-25 14:23:00 | マキャヴェッリ





『その国家を保持したいと思う人には三つの進路があります。
その一つ目はこうした国家を破壊すること、
次には本人がそこに住むこと、
そして三番目は彼らが独自の法のもとで生活することを許して、租税を取り立て、内部には友好関係を保つ寡頭政権を確立することです。』


この理屈は資本による経営支配にも通じる。1番目の破壊するというのは大げさだが、中心を変えてしまうことによって実質上の旧経営の破壊ができる。いつまでも創業家に社員の忠誠心が向いていては支配することは出来ない。多くの場合人的資本的に関係を切ってもらうのが上策であろうが、そういう機会はめったに得られない。二番目の乗り込むという方法は有効であるが、影響力をどのように及ぼすのかという戦術がなければ成り立たない。これにはルール化という路線を宣言することが大切で、大きな目的を憲法とする(自分に従うことをおいてもいい)と反乱分子の掃討にきく。三番目が下策であろうが、摩擦を最小限にすることから、取り組みやすい。残し置き勢力を永久に排除できないという二重状態を許容しているために、第三勢力につけこまれ引き込みにより経営の命を落とすことになる。

破壊するというのが上策であるというのは歴史的にも成功例が多い。
例えば日本の戦後を見てみれば良い。米軍は軍隊と産業と都市を破壊したばかりでなく、精神を破壊した。破壊を徹底しなかったところが蘇りつつある。しかしこの70年は二重支配の歴史そのものであった。米国は初期は破壊路線であったが、結局3番目を選ばざる得なかった。資格を制限した寡頭制御による本当の支配をいかに見えないように隠すか非常に日本人は協力的だった。ここにも日本人の世間不変の法則が効いているのである。



小和田恒氏はスイスのバーゼルのホテルに「軟禁」理由はカネらしい。由々しき事態。そしてイラクで死んだ外務省職員
奥参事官、井ノ上書記官及びジョルジース運転手ほか大使館員は、米軍コンボイの近くを併走したり追い越す危険については熟知していた。 いずれにせよ、米軍誤射説については、米国自身もこれを完全に否定してきており、
政府としても、それを示唆する内容のものには一切接してきておらず、こうした見方に与するものでは全くない。

ご冥福をお祈りします。

奥 克彦(おく かつひこ、1958年1月3日 - 2003年11月29日)は、日本外交官イラク日本人外交官射殺事件で銃撃を受け殉職参事官から大使に2階級特進。位階勲章従四位旭日中綬章学歴早稲田大学政治経済学部政治学科卒業位階従四位学位政治学士(早稲田大学)称号大使旧姓小和田雅子は以後、適応障害という「何秒」に陥る。なぜでしょう。今年2023年は何秒20年記念日にはちゃんとお参りしておきなさい。


2003年11月29日、午前11時(現地時間)、イラク北部、バグダード北西140kmに位置するティクリート南郊で、奥克彦・駐英参事官と井ノ上正盛・駐イラク三等書記官、それにイラク人の運転手が乗った車両(トヨタ・ランドクルーザー)に、後ろから追いついてきた車が銃を発砲。その後、3人が乗る車は30メートルほど先の農地へ突っ込んだ。近くの店の主人が、車が突っ込んだのに気づき、警察へと通報した。 警察が約1時間後に現場に到着した際には、左ハンドルの車の運転席にいたイラク人運転手と、前方右の座席にいた井ノ上書記官はすでに死亡していた。後部座席にいた奥参事官は、意識はないもののまだ息があり、ティクリートの病院で救命措置を受けたが、午後2時前に死亡した。イラク戦争が終戦後、初めての日本人犠牲者であった

銃弾の鑑定の結果、使用された銃は口径7.62mmで右回り4条の腔線を有する、といった点が明らかにされている。


兵庫県宝塚市出身。家族は夫人とこども3人(1男2女)。

井ノ上 正盛(いのうえ まさもり、1973年5月11日 - 2003年11月29日)は、日本外交官熊本大学法学部卒業学位学士(法学)宮崎県都城市出身。


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