『伊豆の踊り子』は川端康成の出世作だが、読んだことはなかった。すでに映画化されていて大方のイメージとは内容が露見していたのですでにメディアは読書魅力を貶めていた。つまり読者をある種の下層の知性不足という扱いが映画化の動機かもしれない。もう90年以上前のことだから、今の風俗では昔の旅芸人の社会的扱いなど想像できないだろうし、生娘とか、女が飲んだ後じゃ気が悪いだろうからと山清水を飲まずに待つとか、学生の扱いが別階級であったことなど想像もできない古典となったという意味では、伊豆の踊り子を読むにあたっては歴史知性が不足している。自分の涙を流れるがままに自分の自我が消えてゆくような悲しみの体験が川端のこころのさざ波を止めてある種の明鏡止水となっていた。
「さよならを言はうとした」のも、「うなづいた」のも、「私」と取られるのが、むしろ自然かもしれない。しかしそれなら、「私が」ではなくて「私は」としさうである。「私が」の「が」は、「さよならを言はうとした」のが、私とは別人の踊子であること、踊子といふ主格が省略されてゐることを暗に感じさせないだらうか。 — 川端康成「『伊豆の踊子』の作者」
書いたまま、おそらくはその後に直さなかった川端の心情には若い頃の自分のみずみずしい感覚が愛おしく思えたのかもしれない。特に音に関係する表現や思い切った省略など勢いがあり、練りに練った黴くさい文人の書斎とは無縁の文章であるから、違う鑑賞ができる。新人らしさがある。聴覚の作家である。
1926年(大正15年)、雑誌『文藝時代』1月号(第3巻第1号)に「伊豆の踊子」、2月号(第3巻第2号)に「続伊豆の踊子」として分載された[7]。単行本は翌年1927年(昭和2年)3月20日に金星堂より刊行された[7][8]。なお、刊行に際しての校正作業は梶井基次郎がおこなった[9][10][11][12]。
「家の近所にお城跡がありまして峻の散歩にはちょうど良いと思います」姉が彼の母のもとへ寄来した手紙にこんなことが書いてあった。着いた翌日の夜。義兄と姉とその娘と四人ではじめてこの城跡へ登った。旱(ひでり)のためうんかがたくさん田に湧いたのを除虫燈で殺している。それがもうあと二三日だからというので、それを見にあがったのだった。平野は見渡す限り除虫燈の海だった。遠くになると星のように瞬(またた)いている。山の峡間(はざま)がぼうと照らされて、そこから大河のように流れ出ている所もあった。彼はその異常な光景に昂奮(こうふん)して涙ぐんだ。風のない夜で涼みかたがた見物に来る町の人びとで城跡は賑(にぎ)わっていた。暗(やみ)のなかから白粉(おしろい)を厚く塗った町の娘達がはしゃいだ眼を光らせた。 今、空は悲しいまで晴れていた。そしてその下に町は甍(いらか)を並べていた。 白堊(はくあ)の小学校。土蔵作りの銀行。寺の屋根。そしてそこここ、西洋菓子の間に詰めてあるカンナ屑くずめいて、緑色の植物が家々の間から萌(もえ)出ている。ある家の裏には芭蕉(ばしょう)の葉が垂れている。糸杉の巻きあがった葉も見える。重ね綿のような恰好(かっこう)に刈られた松も見える。みな黝(くろ)ずんだ下葉と新しい若葉で、いいふうな緑色の容積を造っている。 遠くに赤いポストが見える。 乳母車なんとかと白くペンキで書いた屋根が見える。 日をうけて赤い切地を張った張物板が、小さく屋根瓦の間に見える。―― 夜になると火の点ついた町の大通りを、自転車でやって来た村の青年達が、大勢連れで遊廓(ゆうかく)の方へ乗ってゆく。店の若い衆なども浴衣がけで、昼見る時とはまるで異ったふうに身体をくねらせながら、白粉を塗った女をからかってゆく。――そうした町も今は屋根瓦の間へ挾まれてしまって、そのあたりに幟のぼりをたくさん立てて芝居小屋がそれと察しられるばかりである。 西日を除けて、一階も二階も三階も、西の窓すっかり日覆ひおおいをした旅館がやや近くに見えた。どこからか材木を叩く音が――もともと高くもない音らしかったが、町の空へ「カーン、カーン」と反響した。 次つぎ止まるひまなしにつくつく法師が鳴いた。「文法の語尾の変化をやっているようだな」ふとそんなに思ってみて、聞いていると不思議に興が乗って来た。「チュクチュクチュク」と始めて「オーシ、チュクチュク」を繰り返す、そのうちにそれが「チュクチュク、オーシ」になったり「オーシ、チュクチュク」にもどったりして、しまいに「スットコチーヨ」「スットコチーヨ」になって「ジー」と鳴きやんでしまう。中途に横から「チュクチュク」とはじめるのが出て来る。するとまた一つのは「スットコチーヨ」を終わって「ジー」に移りかけている。三重四重、五重にも六重にも重なって鳴いている。
城のある町にて 梶井基次郎
梶井は対照的に視覚的文章家であった。もちろん音の世界も描いているが映画のような光景が多い。闇のない現代ではこの梶井の文章も味わえない。この作品もまた伊豆踊り子と同じく、主人公(梶井)の悲しみと喪失が癒えて行く過程の心の集中に関わる時間効果の小説である。これまで誰かが気づいているだろうと思うが、この二つの小説は双子のように喪失から癒される心模様が似ている。梶井基次郎の方がやや早い初版発行: 1925年2月20日 である。
この本で柏倉康夫は、梶井基次郎の非人情の観察を《基次郎が愛読していた夏目漱石の『草枕』の中の、「おのれの感じ、其物を、おのが前に据ゑつけて、其感じから一歩退いて有体に落ち付いて、他人らしく之を検査する余地さへ作ればいゝのである」という意識の転換からの影響ではないか。》と言っている。『評伝 梶井基次郎 視ること、それはもうなにかなのだ』(左右社 2010年: この古本は極めて高い)
柏倉の指摘はなるほどとも思えるが、柏倉氏はこの創作過程自体が梶井にとっての癒しの時間効果であることを忘れている。作家の木を見て創作主体と創作の森を見ない、実に残念な研究である。柏倉の博士論文テーマ、マラルメによる「世界は一冊の書物に至るために作られている」という彼自身の言葉の方が最も適当であろう。ここは俗論的に映画的と見る見方の方が近いし、テーマのオリジナル性は川端康成よりも優れていると思う。この時代の有名作家の誰もが絶賛した『檸檬』のなかの「城のある町にて」と「交尾」が誰にも書けない作品だろうと思う。
平野さん:僕は三島の「金閣寺」を読んで文学に目覚めて、本当に三島なくしては自分が小説家になれなかったというくらい非常に大きな影響を受けましたけれども、ノーベル賞を取った作家ということで手に取ると、またちょっと印象は違ったと思いますよね。
中江さん:三島がもし取っていたら、川端のノーベル文学賞もなかったわけですよね。ダブル受賞というのはたぶんありえないと思うんですね、これまでのことを考えると。だから、ちょっとあまり現実的じゃないなというのが私は正直な印象ではあります。どうしても年功序列というか、やはり上の方が取るんじゃないかなと。
さすが歌手でもある中江有里さん。今を生きる日本人に川端康成以外はどんなパラレルワールドでも考えられない。ただし私は長生きしたのが川端ではなく梶井基次郎だったらと思う。なぜなら私も視覚の人だから。
マラルメの《『イジチュール』は、文法も意味も極限まで拡散された最たるものであるが、かなり判別できない文法を辛うじて読み進めると、書く行為(エクリチュール)が人間存在の根底に関わっている所作であることの物語として読める。この体験を契機とし、マラルメはフランス文学史上(あるいは世界文学史上)、初めて詩と人間の根源について問いを立て、それを体系的に提示し(あるいは提示しようとし)、今でも多くの示唆を我々に与えている。》何と大げさなラマルメ評価だろう。 東洋思想ははるか昔に明鏡止水という私を占めだす境地を発見している。