公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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陸軍省パンフレット 「国防の本義とその強化の提唱」泥沼に至る前夜の陸軍

2019-07-21 07:55:43 | 意見スクラップ集
「国防の本義とその強化の提唱」昭和九年十月十日
陸軍省新聞班 徳富蘇峰


『陸軍省パンフレットの冒頭

「たたかい」の意義  「たたかい」は創造の父、文化の母である。個人における試練、国家における競争は、同じく各々の生命の生成発展、文化創造の動機であり刺戟である。  ここでいう「たたかい」は、人々が相剋し、国々が相食む、容赦なき兇兵あるいは破却の意味ではない。この意味の「たたかい」は覇道、野望に伴う必然の帰結であり、万有に生命を認め、その無限の生成化育に参与し、その発展向上に寄与することを天から与えられた使命と確信する我が民族、我が国家は断じてそのような行為はしない。  この正義の追求、創造の努力を妨げようとする野望、覇道の障碍を統御、馴致して、最終的に柔和忍辱の和魂に化成し、蕩々坦々の皇道に合体させることが、皇国に与えられた使命であり、皇軍の負担すべき重責である。「たたかい」をこの域にまで導かせるもの、それがすなわち我が国防の使命である。』



『正義の追求、創造の努力を妨げようとする野望、覇道の障碍を統御、馴致して』という修飾文の示すものが全き正義原理主義である。



『世界的不安と日本  
世界大戦における経済的浪費の決済難と、ヴェルサイユ条約の非合理的処理とに起因して、未曾有の政治、経済的な不均衡、不安定を招く結果となった。大戦に参加した国も、参加しなかった国も、等しく直接間接にこの影響を受けたために、今や世界を挙げて、不況と不安に呻吟することとなった。この世界的な苦難から免れようと焦慮する列国は、競って理想主義的国際協調を放棄して、現実に即した国家主義へと走ったが、そのため大戦後しばらく世界を支配せし平和機構が破綻し、世界を挙げて政治及び経済的な泥仕合を現出し、主要列強を中心として共通利害を有する国々が結成するブロックの樹立となったのである。この間に皇国もまたその渦中に巻き込まれたのだが、かえってこれによって不良企業を清算し、産業の合理化を行なうなど、将来への飛躍を準備しつつあった。
 たまたま極東の風雲が急を告げ、満洲事変が突発し、中国の日貨排斥のため、新市場獲得の必要に迫られたことと、円価暴落を原因として、皇国の商品は、中国を除く全世界の市場に怒涛のごとく流出することとなり、皇国は未曾有の貿易時代を現出した。』



この皇国の臣民のために書かれた情勢分析では支那を原因とした経済的な閉塞状況を皇国の国防の強化に至る正当化に用いているが、満洲国の独立=支那からの祖国切り離しによる反作用に過ぎず、原因と結果が何度も入れ替わりをしているので、支那が原因とは言い切れない。仮にこういう分析が成り立つのであれば、即刻満洲国の独立を否定して国民党政府の下の自治政府として日本人の引き上げと保護並びに満洲国の警察サポートだけ契約してあげるという策もあった。問題は風雲急を告げとしている部分の中に埋もれているロシアすなわちソビエト社会主義共和国連邦の成立を分析していないというところにある。


日貨排斥
1908年にマカオ沖で辰丸事件が発生。これを契機に日貨排斥が行われた。
1915年に日本が提示した対華21カ条要求を契機として不買運動が起き、日本製品の没収,破壊が行われた。
1931年の満州事変により、関税の引上げなど政府をまきこみ、不買運動が行われた。

昭和九年の陸軍パンフレットでは1931年の日貨排斥を指す。

円暴落
第一次大戦前はほとんどの先進国の兌換紙幣は金とリンクしていた。戦時中は金の流出を各国が停止していた。しかし当時の日本の立憲政友会政権(原内閣・高橋内閣)は、国内に対する積極財政政策と北洋軍閥の北京政府支援のために大量の借款が必要となるという観測から金解禁を先送りした。これを原因としてこの間、貿易収支は大幅な赤字となり、為替相場は当時の平価とされた100円=49.875ドル(1ドル=2.005円)を大幅に下回った。このため、高橋是清(大蔵大臣、後に内閣総理大臣を兼務)は、国外にある日本政府保有の金を売却してこれを戻そうと試みたが政治的に阻まれた結果、怒涛の輸出攻勢に出る。故にたちまちブロック経済に包囲されてしまう。これは日本の落ち度ではなく世界経済の貿易の欠陥だった。



『中国もまた伝統的な「夷をもって夷を制す」の策を棄てず、また皇国の極東平和に貢献しようという真意を解せず、常に列強の力を借りて皇国を排撃しようとする政策をとり続けている。その最たるものは連盟に哀訴して満洲事変を解決しようとしたことである。今や連盟の無力は全世界の定評であり、中国もまたその頼りにならないことを覚って、「列強を利用することは結局のところ中国分割あるいは国際管理への道程に外ならない」ということが、ようやく一部に了解されて、真に日中提携を希望する識者も現われつつある。誠に極東平和のために慶賀すべきことである。しかし、一方で依然として、いわゆる欧米派なる者もあって、皇国のいわゆる一九三五、六年の危機*に乗じて、満洲の奪回を企図し、あるいは皇国の東アジアにおける政治的地歩の転落を策謀していると伝へられている。  


注*一九三三年の国際連盟の脱退後、軍部を中心に「一九三五、六年の危機」説が唱えられた。というのは、この二年の間に、国際連盟脱退が発効し、ワシントン軍縮条約・ロンドン軍縮条約が期限を迎え、ソ連の第二次五ヵ年計画の完了により、その軍事力の強化が見込まれる、というのであった。』『しかし右のような策動は、皇国の海軍力がアメリカの海軍力に圧倒されているか否かに応じて、強く主張されたり、そうならなかったりする。このことは、過去の海軍軍縮会議において、皇国が英米の威圧を受けるごとに、中国に排日運動が起り、そのたびに出兵を余儀なくされたことに照らせば、明らかなことである。 』

1933年よりも1930年が1905年高橋是清が交渉して集めた起債の3000万ポンド(追加にはウォーバーグが参加している)の償還が日本の転機であったと想像する。正貨は金で固定されているので。急激な経済成長も銀行信用乗数によって担われている。しかし償還の壁があった。日露戦争費調達のために発行された債券の元利償還が終了した時期については、確認できる資料はないか*謎と言われる。ネット落穂拾いでは、じつは1986年昭和61年であった。つまり、相続税の創設などで徴税努力はしたが、期限を超えて踏み倒し続けた。
* (参考資料)
【資料1】『日本経済史 近世-現代』 杉山伸也/著 岩波書店 2012年
 3321/213/0012 pp.256-259
【資料2】『近代日本戦争史 第1編 日清・日露戦争』桑田悦/編集 同台経済懇話
1995年 2106/432/1 pp.578-593
【資料3】『明治大正史 第3卷 經濟篇』牧野輝智/編 朝日新聞社 1930年 2106/164/003 pp.104-106、pp.417-418、pp.441-442

参考 : 防衛省防衛研究所 http://www.nids.go.jpwindow open
    アジア歴史資料センター(国立公文書館)  http://www.jacar.go.jp/window open
ここの軍部という実体のない後世の注釈解説も誤っている。陸軍の支那分析も「夷をもって夷を制す」がわかっているならば、国際連盟脱退は愚策であることは明白で、ダブスタで自分に甘い。海軍力で妥協しないという論法は今の北朝鮮核開発と瓜二つである。つまり支那と英米は連携して日本を追い込み日本で共産主義革命を起こそうとしていると踏み込むべきところだ。ソ連分析はもっぱら軍事的である。

『ソ連は、いわゆる五ヶ年計画を実施した結果、世界最大の軍備を保有するようになり、特に極東において着々と軍備を充実しつつある。また、ソ満国境の絶え間ない紛争、さらに両者の間にわだかまる案件がいくつもあることを考慮すれば、最近になって高まって来ているソ連の挑戦的態度と常習的な不信の態度とも合わせて、日ソ関係の今後の推移は、見通しが困難な情勢である。従って、いかなる情勢の変化に遭遇しても支障がないほどの兵力、装備の充実が、時局対策として最も重要なものの一つでなくてはならない。この兵力装備に就いては具体的数字を掲げる自由はないが、主要列強の軍備と比較して、国際情勢が急迫する状態を考察するならば、皇国の兵力装備が十分でないことは十分に了解可能であると信ずる。近代軍備において航空機が絶大な価値を有していることは、今さら述べるまでもない。』

『陸軍新聞班によるパンフレット発行は従来から行なわれており、近代的軍備国防に関する調査、研究並びに意見を一般に知らせるという目的に基づくものである。従って最近発行の小冊子も一般ジャーナリズム、政界、財界等において遇されたような刺激的重大性があるとは、我々は考えていない。長期的な国運の将来に自信のある大国民の態度としては、事あるごとに騒ぎ立てるのは好ましくないことである。ただ、内外に時局の難問題が重積し、改善を要する内政、打開を迫られる外政の現状が一種の不安の世相を現出しているために、この発表が予想外の衝撃を国家の内外に与える結果となったことは否定し難い事実である。林陸相*は、閣議において、調査、研究並びに実行については、「各々その専門要路の各省において分担すべきで」決して「軍自ら行なうというような意思は毛頭ない」と釈明している。この釈明は確かに、各種の憶測を一掃するに足ると考えられるが、改革意見が日ごろ部内に存在することがすでに周知のことである以上、その表現方法については今いっそうの注意が望ましかった。統帥権に直接属しない一般内政、行政、国策関係の事項は、軍の意見も陸軍大臣を通じ、閣議を経て、政綱政策として発表するのが、国務輔弼に任ずる内閣総理大臣の責任であり、同じく国務大臣たる陸軍大臣の責任である。そうしなければ行政の統一性は保ち難いと言わなければならない。  
注  *林  銑十郎。一八七六年生まれ、一九四三年没。当時、岡田啓介内閣で陸軍大臣を務めていた。翌年、陸軍で相沢中佐による永田軍務局長の斬殺事件があり、引責辞任した。その後、二・二六事件を経て、一九三七年に内閣を組織した。
 案の内容については、現代国防軍備に対する広範な解説の啓蒙的価値があり、また国内諸制度に対する改革的意見の片鱗にも示唆に富むものがあり、ことに国家の現状に対する誠意ある憂慮が感じられる。その意味において、この提唱は朝野の国策研究上の資料として重視すべきものの一つであると考える。』


そして徳富蘇峰は概ね先般からの自分たちと同じこと言っていると評した上で
『 現在、我らが遺憾に堪えないのは、近年は軍人ばかりが光彩を放ち、政党はもちろん、他の文官もまた気圧されて浮かぶ瀬もないことである。これは決して軍人の横暴のためではない。軍人以外の者が、余りに意気地がないからだ。伊藤博文公爵などは、武力全盛の世の中において、かえって薩長その他の軍人を靡かせて、あえて逆らわせなかった。』と政党に注意している。しかしこの時点ではまだ起こっていないが226後の昭和十一年5月に広田弘毅内閣は問題を起こした退役軍人の影響を排除するためという名目で軍部大臣現役武官制を復活させた。このことで 1900年明治三十三年山縣の置き土産が復活、いわゆる現役武官制(軍部大臣の補任資格を現役の武官の大将・中将に限るという軍部大臣現役武官制を規定)が抜きがたい内閣の条件となる。この時の林陸軍大臣は一定の輔弼秩序を前提に火消しをしている。
徳富蘇峰も世界を読み違えていた。戦争になった理由は日本の中を探しても見つからない。陸軍省パンフレットを読んでも日米戦争でない選択肢はいくらでも出てくる。ある意味、共産主義を含めてだが、アメリカ人の信じた世界が均一な価値に服従する、服従すべきと言う楽観。彼らが《生きた日本社会》を何も分からずに解剖したり強制手術したり、劇薬の化学反応を日本の胎内に起こしたり。残虐に痛めつけることで、彼らの信じる価値観が一見成功しているように見えたのは、日本人が粛々と受け入れた忍従を何十年も米国人に気づかせなかったのは日本人の日本人に対する罪だろう。 しかしそれ以外の罪は日本人にはない。
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