1978年頃の石狩浜 色づいて蘇る
石狩浜は今もこんなところらしい。
振り返ると若い時の想いは時間が無限にあると感じていたためか、行動選択がいい加減で、適当にボタンを押すゲームのような気がしていた。ゲームのルールも知らないままに。世間のルールを知っていることが卑怯なことのように思っていた。いつか到来する我が道に根拠のない自信を持っていた。
山月記で言えば
『進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、また、おれは俗物の間に伍することも潔しとしなかった。』
「実は臆病な自尊心と、尊大な羞恥心の為せる業だったのだ。本当は詩才がないかも知れないのを自ら認めるのを恐れ、そうかと言って、苦労して才を磨くことも嫌がった。それが心中の虎であり、ついに本当に虎になった。」
自尊心と羞恥心という振れ巾の中で、虎になった李徴と同じ矛盾状況だったかもしれない。
1977年は、心酔するほどの師匠筋やロールモデルもなく、世俗の遊興とも無縁だった。そもそも大学は教育機関として機能していなかった。様々な学友たちの「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」と自分の分との差分を認識するだけで精一杯の無軌道な1年目だった。
この頃の自分は受験勉強らしい勉強もせずに運良く大学に入ったものの、意欲を失い全くの抜け殻だった。クストーのようなフィールド研究は遠い夢から届かぬ夢になった。大学への幻想が大きすぎたのかもしれない。今やっていること、つまらない間違っている授業内容で、ゲームのように単位をとり進級することがただただ虚しかった。
私は手を挙げてあなたの学説は間違っていると授業中に発言する厄介な学生だった。
ただ見たことのないものに夢中になる青春の危機そのものだった。
このブログ形式のメモも11年を10日ほど超えたが。。
北大が早稲田の次に多いとは。左巻きボンクラが増えるだろうな。
軽い気持ちで入った自然保護サークルも社会党左派の根城で(今はどうか知らない)、気持ち悪い人間関係と男女の肉体関係が露骨だったため、半年でやめて、簡易野営で一人自然の中に出かけていた。現実逃避の日々だった。
学部に期待していたサケの遡上フィールド研究もこの大学では出来そうにないし、専攻コースを変えようか、いっそ大学をかえようかと迷っていた。
南国の海とは全く違う石狩の浜
雨上がりのこの浜辺で私は何かを決意したように思うが、思い出せない。
この先に何が人生の障害になろうとも自分のオリジナリティで根底から突破しよう。たぶんそう考えた。はずだけど。
45年も過ぎたこの個人的重大事件は、善悪以前にやがて人の命が関わっていた。それゆえに後の事になるが、もはや世俗にはとどまれない。
そう考えた。もはや初級編などどこにもない。
かなり高度な困難に挑むことになる人生の始まりだった。
みんなどうしているかな
この無邪気な笑顔を見よ
ここまで表情を緩めることはその後それぞれの人生にあっただろうか。その後は皆この時の百倍幸せであったことを願っている。