引用元1
『虚業成れり』でも書いたが、AFAを財団法人するために、暗躍したのが、田村敏雄だった。当時AFAにとって最大の懸案は、マスコミ数社にしか許されていなかったドル購入枠の規制をどうくぐり抜けるかであった。AFAは、時には闇ドルを購入し、調達せざるを得なかった。財団法人化することで、この規制を逃れることができたのだが、このために、神は、当時政権をめざしていた宏池会事務局長の田村に接近し、多額の政治資金を納めていた。神の側近木原の話によると、田村からは、急に金の調達を依頼され、よく金を届けていたというし、神自身、自伝『怪物魂』で数千万の金を池田政権のために、投入したと語っている。
田村は、金を運んでくる木原に対して「池田が政権をとったら、ドル枠を撤廃してやるぞ」と語っていたというが、実際に池田政権誕生後、ドル枠は撤廃されることになる。ただ皮肉なことに、これはいままでAFAほか数社が、牛耳っていた呼び屋業界に、風穴をあけることになり、多くの新会社の進出を許すことになったのだが・・・。
呼び屋が、一政治家に多額の政治資金を提供するということは、当然見返りを期待してのものであり、あの時代神にとってドル枠撤廃という大きな目的があったのは間違いない。しかし『危機の宰相』を読むと、金、そして利権とは別の、ないなにか大きな絆が、神と田村のあいだにあったのではないかと思うようになった。それは「幻」へ賭ける思いではなかったのではないだろうか。
『危機の宰相』の第6章「敗者としての田村敏雄」に、詳しく彼の敗北の歴史が書かれてある。池田と同期に大蔵省に入省した田村は、1932年満州に渡る。大蔵省での自分の未来に絶望し、見切りをつけたことが大きかったのだが、彼なりに前年建国した満州国にある夢を抱いての事だったと沢木は書き、田村自らが書いた数少ない満州時代への思いを振り返った文章を引用している。
「形は侵略であり、征服であっても、精神はそうでない、いや、たとえ一部の精神はそうであっても、独立国とした以上、これをほんとうの独立国、新しい意味と理想とをもった独立国にしたいと日夜心をくだき、努力をしたということは、夢破れた今日、やっぱり、ひょうたんはコマは出なかったと知ると共に、いっそう、当時のこころもちをなつかしみ、自らのはかなき努力をあわれむ気持ちがするのです」
日本の敗戦と共に、現地でソ連軍に捕らわれた田村は、5年間の抑留生活を強いられ、1950年帰国している。帰国した田村は、一時大蔵省のPR出版業務をする外郭団体の理事長に就任するが、54年に辞職、池田勇人の個人後援会「宏池会」をつくり、池田を総理にするための本格的活動に専念する。
この経緯について、沢木はこう書いている。》
「満州での挫折とシベリアでの抑留ですべてのエネルギーが喪われてしまったと田村は自分で思い込んでいた。しかし、政治家池田と結びついた田村には、池田を総理にすることでもう一度だけ満州で果たせなかった「夢」を実現しよという情熱が甦ってくる。池田を宰相に仕立てたいと考えるようになったのだ」
引用元2
「日本とユーラシア」2004年7月15日号 (長塚英雄)
50年代大衆公演の成功と神彰のAFA (長塚英雄・日本ユーラシア協会事務局長)
「波乱万丈」という言葉で言い表すとすれぱ、月並みすぎる。壮絶な、常識人からすれぱ無鉄砲な人生といえるかもしれない。神彰(じん・あきら)の人生はそれほどある種の感動を伴うユニークなものである。
だから著者・大島幹雄氏がコツコツと取材した神彰の人生ドラマは、人を惹きつける。
実は、日ソ協会はこの神彰氏に大変お世話になっている。戦後の日ソ文化交流の草創期の歴史において彼が果たした役割には大きなものがある。著者のような「呼び屋」どうしの感動とは別に客観的にみても評価される人物であるように思う。
私はこの本を手がかりに、日ソ協会初期の文化.交流において、会員・市民に感動を与えた低料金による大衆公演の「仕掛け」を知った。神氏=アート・フレンド・アソシエーション(AFA)は、次々招へいするソ連芸術家グループの来日公演ーステージを無料で協会に提供していた。国交回復直後だから日ソ友好親善のためという大義名分があったとはいえ、ソ連大使館やソ連本国との契約交渉をうまくすすめるために唯一の窓口だった協会との付き合いは必要だったともいえなくもない。神彰氏と直接に接触して無料公演を実現していたのは堀江邑一先生(常務理事)だった。堀江先生の要望に一度たりともノーと神彰氏は言わなかったと聞いている。
引用2 上野破魔児の証言 一部
「私はね、大正3年の生まれなのですが、大正9年に父親に連れられて、大陸に渡りました。それからは終戦までずっと大陸暮らしです。ハルビン学院を卒業して入ったのが、いまの日本交通公社。満州各地に支店がありましてね。ハルピン、大連、満州里、新京などあちこち転々としました。
神と会ったのは、いつ頃だったのだろう。たぶん昭和16年頃だと思います。ハルピン案内所の副所長をしていた時に『上野さん、とんでもない若い社員がいるんですけど、面倒見てくれませんか』と頼まれたのですが、それが神だったのです。
実際にこの男、とにかく仕事をしない。ぼけっと何もしないで机の前に座っているだけ、ちょっと目を離すと、スケッチブックをもってフラッと出かけてしまう。それに加えてぶっきらぼうで、とてもカウンターに立たせて、客の相手なんかさせられないわけですよ。
『どこへ行くですか。エッ、聞こえないな、はっきり言って下さいよ、切符はいるんですか』こんな調子ですよ。客とすぐに喧嘩になってしまうんだから、とても客相手はさせられないですよ。しようがないから、案内所の中の装飾とか、ポスター描かせるとかやらせていました。
絵は確かにうまかった。私も絵を描いてましたからね、わかるんですけど、ほんとうにうまかった。
パリに留学するための資金づくりに大陸に来たって言ってたけどね、あんな暮らしじゃ金なんかたまるわけがない。実際人を食ったような男でしたね。
でも憎めないとこはあったね。」上野は最初にあった神の印象を思い起こしてくれた。まるで手に負えないやんちゃな弟のことのことを思い出すような語り口だった。
上野は終戦まで満州各地を転々とするのだが、上野以外に神のような問題児を使える人間はいなく、結局上野と一緒に神も、奉天、新京と渡りあるくことになる。「確か奉天の案内所で働いていたときだったね。私はどうしても営口の案内所を見なくてはいけなくて、神を奉天に置いてきたんだ。その時だったね。北原白秋の一番弟子で、「たき火」なんかの唱歌を書いた巽聖歌という詩人を連れて、営口に来たのは。神は得意気に巽を私に紹介していましたよ。
その時に神が、『上野さん、調査宣伝課の課長に殴られちゃった』というから、どうしたんだと聞くと『何か俺のことが気に入らないんだと殴ってきたんだ』と言う。『お前、殴り返したのか?』って聞くと、『殴ってもしあないし、殴られ放しにさせておいた』って言うから少しは安心してね。上司を殴り返したら、そのまま会社になんかいれませんからね、とにかく困った奴だったね。」上野はある時神の画才を見込んで、どうだカレンダーをつくってみないかと、誘ったことがあった。この時神は、珍しくやる気になって、出来上がってきたものを得意気に上野に見せる。満州の子どもたちが描いた満州の風景の絵が12枚あった。上野は、旅行会社のポスターなのに、これじゃ、満州の紹介にしかならないじゃないかと言うと、神はその場でその絵を破り捨て、上野を驚かせる。
神の気性の激しさを物語るエピソードといえよう。
上野は、『お前どうやって満人に絵を描かせた、ただではないだろう』と問いただすと、悪びれず『用度の奴に一杯飲ませて、消しゴムやらクレヨンをもらって、それを配った』という返事に、上野は呆れ、一言自分に相談してからやらないとダメじゃないかと、説教したという。「癖になるからね、とにかくあいつはなんでもかんでも、自分勝手にやるんだな、でもこのアイディアにはちょっとは感心したんだけどね」上野がいなければ、神はとてもこの会社で働き続けることはできなかったのではないだろうか。