AIによる要約
「文化と社会の相続と創造」というミッションを現代のエリートは忘れようとしている。
なぜならば戦後79年間、日本人は文化と社会を壊してばかりいた。
この絵のように日本を最も熱心に破壊したのは日本人であった。
ゴジラは日本人の戦後行動の象徴である。
「要するに社会は、文化の相続と創造とを必要とする、これなくして社会の維持もできないし、いわんや社会の進歩もできないからである。
ところで初等・中等の教育だけでは、この任務を負担するに足らないとすれば、社会は一群の成員をして、さらに高等の教育を修めさせねばならない。
彼らと同年輩の青年が、現に労働に従事して社会の生産力を増しつつあり、さらにその方面の労働人口を増加することは、それだけ生産力を加えることにはなるが、それでは文化の維持と発展とが望まれない。
ここにおいて一群の青年を労働から解放し、いかに生きるかの自然的生活の配慮から脱却せしめて、専心教育に没頭することにさせなければならない。
河合栄治郎が指摘した社会の期待「文化と社会の相続と創造」は世代を重ねるたびに現世利得によって希釈されてきた。
エリートは「文化と社会の相続と創造」に動機を持ち続けて自身の生存をかけるべきである。
「文化と社会の相続と創造」というミッションを現代のエリートは忘れようとしている。なぜならば戦後79年間、日本人は文化と社会を壊してばかりいた。まず神話を迷信に貶め、言語を変えて、書籍を燃やし、歴史を書き換えた。この絵のように日本を最も熱心に破壊したのは日本人であった。ゴジラは日本人の戦後行動の象徴である。
「要するに社会は、文化の相続と創造とを必要とする、これなくして社会の維持もできないし、いわんや社会の進歩もできないからである。ところで初等・中等の教育だけでは、この任務を負担するに足らないとすれば、社会は一群の成員をして、さらに高等の教育を修めさせねばならない。彼らと同年輩の青年が、現に労働に従事して社会の生産力を増しつつあり、さらにその方面の労働人口を増加することは、それだけ生産力を加えることにはなるが、それでは文化の維持と発展とが望まれない。ここにおいて一群の青年を労働から解放し、いかに生きるかの自然的生活の配慮から脱却せしめて、専心教育に没頭することにさせなければならない。これが学生が父兄の仕送りによって、学窓に勉強をなしうる社会的理由である。もとより仕送りをなしつつある父兄が、個々的にこうしたことを意識しているというのではない。また社会という集団が意識して、こうした任務を個々の学生に課しているのでもない。しかし何人が意識しようがしまいが、これが社会の学生に対する期待であって、学生のこれに報ゆべき任務である。
河合栄治郎. 新版 学生に与う 教養 (現代教養文庫ライブラリー) (p.20). インタープレイ. Kindle 版. 」
日本人のエリートはあっさりと上からの価値破壊活動=東大システム*に適応してきた。社会が期待する学生の任務はもはや学歴フィルターの突破であってその先の高給奴隷生活の賞賛とその突破努力できる能力の賞賛に溢れている。河合栄治郎が指摘した社会の期待「文化と社会の相続と創造」は世代を重ねるたびに現世利得によって希釈されてきた。今だけカネだけ自分だけのエリートは究極の保身に走り出している。
エリートの保身はAI時代に不要である。なぜならば、上司について忖度していくらごますっても評価は上がらなくなる。学歴フィルターは残念ながら過去の遺物になる。いみじくもの学歴フィルター社会の産物である伝説の予備校講師、富田一彦先生自身が述べたように「知識は全体を観る道具である」という格言に照らしてみるならば、
道具はAIに取って代わるが全体を観るという動機はAIには置き換えられない。なかなか伝達できないが創造の手触り知的テクスチャーというものが知識の裏側にあるのだ。
学生の頃の自分
1978年の春だろうと思う。抜け殻のようになっていた44年前か。
増田 僕が入部したときに和泉さんが「自分のために頑張れんことでも人のためなら頑張れるんで」って言ってくれましたよね。
和泉 本当にのう、人間ちゅうのは自分のことより人のための方が頑張れる。不思議なもんじゃ。自分のことはナンボでも妥協を付けられる。ここぐらいでいいと。それが人に対しては頑張れる。
そう私もひとのためだった。危険とは思った、自分のためではなかった。
エリートは「文化と社会の相続と創造」に動機を持ち続けて自身の生存をかけるべきである。
*東大システム
若い頃からの頭の良い子選抜で残ったから、あるいは残らなかったからあらかじめ自分の道は保証されていた。あるいは保証のない人生になった。この神話が日本人の戦後の新たなDNAである。その結果、さまざまな重要な日本の危機におめおめと引き下がるような無能なエリートを輩出し、国柄の危機に無関心な大衆(非保守)を生産し続けた。エリートの養分となり蹂躙される日本人を形作ったDNAは偏差値選別(教育機会の不均等)教育による人間差別統治である。
『 期待される人間像』という左翼の批判に晒された後期中等教育改革の指針を覚えているだろうか。われわれの世代はまさにこの答申を下敷きとした詰め込み教育世代である。
簡単に言えば科学技術・国際人・民主主義の担い手がこの当時政府の考えた良き人格の答えだった。ここには『文化と社会の相続と創造』という発想はなく、卑小にも人格の形成が教育の目的に置かれてしまっている。その発想の失敗は今日の日本のエリートを見れば明らかだろう。
2 人間形成の目標としての期待される人間像
後期中等教育のあり方を検討するにあたっては,上述のような各種の要請について配慮するとともに,さらに一歩を進めて,今後の日本を背負うこれらの青少年に対する教育は,究極においてどのような理想をめざすものであるかについても考えてみなければならない。
いうまでもなく,教育は人格の完成をめざすものであり,人格こそ,人間のさまざまな資質・能力を統一する本質的な価値である。すなわち,教育の目的は,国家社会の要請に応じて人間能力を開発するばかりでなく,国家社会を形成する主体としての人間そのものを育成することにある。
それでは,主体としての人間のあり方について,われわれはどのような理想像を描くことができるであろうか。そのような理想像は,国民各個人がみずからの人間形成の目標として希求するものであるとともに,人間形成を媒介する教育の仕事に従事する者が教育活動の指針とするにふさわしいものでなければならない。それを,われわれは期待される人間像と呼ぶ。教育の究極の理想を探究することは,このような期待される人間像を追及することにほかならない。
このような観点から,後期中等教育の理念を明らかにするため,今後の国家社会において期待される人間像はいかなるものかについて検討し,その公表された中間草案に対する各方面の意見も考慮して,別記の「期待される人間像」をとりまとめた。この検討にあたっては,わが国の憲法および教育基本法に示された国家理想と教育理念を根底にするとともに,われわれ日本人が今日当面している重要な課題はつぎの三つであると考え,これに対処できる人間となることを目標として,そのためとくに身につけなければならない諸徳性と実践的な規範とをあげて期待される人間像の特質を表わすこととした。
(1) 技術革新が急速に進展する社会において,いかにして人間の主体性を確立するか。
(2) 国際的な緊張と日本の特殊な立場から考えて,日本人としていかに対処するか。
(3) 日本の民主主義の現状とそのあり方から考えて,今後いかなる努力が必要か。
本審議会は,別記の「期待される人間像」が,広く一般国民,とくに青少年の教育に従事する人々が人間像を追求しようとする場合,あるいは,政府が基本的な文教施策を検討する場合に,参考として利用されることを期待するものである。
3 後期中等教育の目的・性格
以上のような観点から,今後わが国において拡充整備すべき後期中等教育は,つぎのような目的・性格をもつものとすべきである。
(1) 15歳から18歳までのすべての青少年に対し,その能力を最高度に発揮させるため,義務教育修了後3か年にわたって,学校教育,社会教育その他の教育訓練を通じて,組織的な教育の機会を提供する。
なお,将来において,18歳までなんらかの教育機関に就学する義務を課することの可能性について検討する。
(2) 教育の内容および形態は,各個人の適性・能力・進路・環境に適合するとともに,社会的要請を考慮して多様なものとする。
(3) すべての教育訓練を通じて,人間形成上必要な普通教育を尊重し,個人,家庭人,社会人および国民としての深い自覚と社会的知性を養う。