公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

昨夜のユーミンはもはやユーミンの作品では今読ん 「僕の音楽物語(1972_2011)」 平野肇

2022-03-31 15:21:42 | 今読んでる本

写真はSONY ソニー ICF-5800 スカイセンサー 5バンドマルチバンドレシーバー FM/MW/SW1/SW2/SW3 (FM/中波/短波/BCLラジオ) d2ldlup これでユーミンを聞いたと思う。
1973年に発売されたスカイセンサー5800 【ICF-5800】 は一般家庭用の高機能ラジオとしてコストパフォーマンスに優れ絶大な人気の国民的ラジオでした。当時の短波ラジオの多くは12MHZまで受信するのが限界でした。このICF-5800はアマチュア無線が復調可能なBFO回路を装備しており、28MHZまで受信できる画期的なラジオでした。

 


こういう写真に見るおしゃれな若い人々の時代。自分にとって終わりかけの青春時代だった。
青春時代


予習なしでは歌詞も聞こえない。それでもファンは満足していた。

元気なだけで、それでいい。50年もやってるんだから。

私はファンではない。記憶の中にユーミンがあるというだけ。彼女なりの16番目の月を見た。

 



流れで「名もなきミュージシャンの手帳が語る日本ポップス興亡史 僕の音楽物語(1972_2011)」平野肇 氏が、Kindleにあったので読んでいる。エレキブーム世代のエド山口より少し下の世代とニューミュージックブームとの間世代。ユーミンが揶揄して言ったという「四畳半フォーク」、なぎら健壱が「青春ギター歌謡」と後年名付けたものではない音楽。つまり時代、岡林を頂点においたフォーク運動消滅の契機となった第3回全日本フォークジャンボリー1971年8月7日悲劇の終末事件以降の虚脱、日本のポップスの実験室のような光景(譜面なし)が描かれている。

第3回はまるで芥川の羅生門のように語り手によって異なる出来事ばかりで当事者にも真相がわからない。現場の詳細はなぎら健壱が比較的客観的に主観を交えて講義動画にしているので、高石ともや(第2、3回には参加していないし、赤い鳥はアメリカにいた)の事情に含むものがありそうなので参考にしてほしい。

偶然だが

1971年8月7日東京都千代田区警視総監公舎玄関脇に爆弾が仕掛けられる事件が発生。警察官が犯人らしき男を追うが、逃げられてしまった。検察日大紛争メンバーなど6人を爆発物取締罰則違反で起訴したが、1983年裁判で全員に無罪が確定した。元被告らは国家賠償請求を提訴。2001年12月20日、裁判所は捜査の一部の違法性を認め、300万円の支払いを命じる判決が確定。

同日の偽事件発生は”偶然”である。

今ならば陰謀論だろうけどその頃はさほど騒がれなかった。それにしても当時の警察は強権で技術不足だった。

一方平野氏が体験したように大学でフォーク楽器ができる人はセクトに声かけられたのも事実。吉田拓郎も利用されかけていた。フォークはそういう左翼全盛の時代だった。同時に非政治的”四畳半フォーク”が生まれ始めてもいた。

発酵時代(皮肉なことにフォージョーハーフの由来は四畳半)の秘密を読み解くようで面白い。平野氏の場合も1971年大学での世界民族音楽研究会(慶應は知らないが多くの場合共産党系の草刈り場、なぜか世界とつくのが当時のポイント)が出発点だった。左翼活動家もそうだったが、当時、忘れてはいけないのが、学業との折り合い。弟の融氏を巻き込むこと親父さんをどう説得したかそこは飛ばされている。

ユーミンに戻ると「音楽は趣味でやっているんです。プロ意識なんかないわ。喰うためにやったらいい音楽なんかできません。音楽で金を稼ごうなんて考えていないの。今は軌道に乗ってお金が入ってきますけど」『週刊現代』(1976年2月5日号)という人だった。語尾の“わ”が懐かしい。

インタビューは1976年頃か、オフコースもやっと売れ始めた頃だ。そういえば私はその少し前、TBSの深夜ラジオパックインミュージックで林美雄がかけまくったという荒井由美/ユーミン、そこで知ったのだった。深夜放送はユーミンのブレークと深く関係していた。平野氏の文章は時間が前後チューニングしながら確実に当時の周波数にリンクする時間移動ラジオのようだ。長谷川きよしや永六輔も深夜の常連だった。鯨尺の運動は懐かしい永六輔の声が聞こえてきそうだ。

PS

釧路まで来るって。電波さえ届くのが怪しかった最果てまで来ていただくなんて演歌歌手のようなありがたさ。

 

 

深夜いつの間にかまだ賑やかだった最果ての街釧路に空気のように流れてきた曲、彼女はそれまでのうまい歌手ではない、同時期の歌手ならばペドロ&カプリシャスの高橋まり(高橋真梨子)の方が今でも数段上だと思う。

歌手としてのユーミンにはロングトーンの盛り上がりも、ビブラートの美しさもない、コブシを聴かせた民謡なんか絶対に歌わないタイプ。田舎と無縁な都会的な内容で勝負するストレートな声自体が新しかった。ピーガーと電波がやっと届く辺境の釧路の夜空に新しかった。

のちにユーミンが、陽水やかぐや姫のことを「四畳半フォーク」と言い放って、物議をかもしたのは有名な事実。これは、自分の世界はほかの人たちと違うという声明であり、それまでの固定観念に対する明らかな挑戦状だった。周囲のスタッフはヒヤヒヤしたはずだが、新しい世界を築いていくパワーを内包していたからこそいえた言葉だと思う。 「私は絶対に有名になる」  という言葉を、ユーミンはよく口にした。という。

 

声はナチュラルにフラットする音探り(いわゆるへた、ファンの皆さん申し訳ない)掟破りのヴォーカルだった。当時不思議だが歌声の主の顔を見たいとは思わなかった。異世界の人だった。しかし一度聞くと絶対癖になる、特に思い出に残るのが「あの日にかえりたい」のボッサ。そして彼女の書く詩、曲、言葉の選択(やさしさ、嫉妬、悲しみ、包容、恵まれた現在肯定感、ある意味のオラオラ:これまでの青春歌謡が隠していたものの一斉開花)プラス演奏の新しさ、コーラス(シュガーベイブ山下達郎の色)演出の華やかさ、しかもアルファ&?を通じて商業的に大成功。

フォークジャンボリーを引きずる当時大多数の若者(当時フォークソングギターが弾けない男は見た目をカバーする魅力のない二流の男子だった)とは真逆の世界、時代が変わるそういう印象だった。

🌟山本潤子さん(早く元気になってもらいたい)🌟のスキャットコーラスでどうぞ聞いてください。この時の中野サンプラザ再会セッションでは平野氏は呼ばれてなかったのでしょうかね。

インターネットに見つけられる最高の動画版、あの日にかえりたい、「いま愛を♪」の発声が横口(橋幸夫)技法にして上手くなってる進化したユーミンどうぞ↓。

松任谷由実 - あの日にかえりたい (Yumi Arai The Concert with old Friends)

 


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