『ちょうど宗教の精髄が、複雑な神学に在るよりも無心な信仰に在るのと同じなのです。信仰史が宗教の正史なのです。
信仰の前に神学は二次なのです。同じように無心な民藝の美に対して、個人の意識的な作は二次なのです。なぜなら無心は意識よりも、もっと深いものを捕えるからです。民器の美に向って官器の美は二次なのです。民衆より生れ民衆に役立つ雑具にこそ工藝の正道があり大道があるのです。それ故、民藝の問題が工藝の根本問題なのです。工藝論は新しく出発せねばなりません。工藝美の歴史は書き改められねばなりません。私達は工藝の正史を綴るべき任務を帯びているのです。』
民藝の美を工藝の正史とする課題は達成されただろうか。美を史的実在と捉えること自体が虚妄であるから、柳流の虚妄として編みあげた。はっきりと流通する意匠の美と捉えれば、少しは普遍性があったかもしれない。
信仰の前に神学は二次なのです。同じように無心な民藝の美に対して、個人の意識的な作は二次なのです。なぜなら無心は意識よりも、もっと深いものを捕えるからです。民器の美に向って官器の美は二次なのです。民衆より生れ民衆に役立つ雑具にこそ工藝の正道があり大道があるのです。それ故、民藝の問題が工藝の根本問題なのです。工藝論は新しく出発せねばなりません。工藝美の歴史は書き改められねばなりません。私達は工藝の正史を綴るべき任務を帯びているのです。』
民藝の美を工藝の正史とする課題は達成されただろうか。美を史的実在と捉えること自体が虚妄であるから、柳流の虚妄として編みあげた。はっきりと流通する意匠の美と捉えれば、少しは普遍性があったかもしれない。