岩波文庫などの本文は現代においては、読みにくいものです。
アメリカ人たちから見ると、その「檻」のなかの二人のありさまは、あまりにも悲惨で、たとえば古代ローマで、冷静な政治家として知られるカトーでさえ、あんな環境におかれたら動揺してしまうのではないか……とさえ思われたそうです。それにもかかわらず二人の態度は、じつに堂々としたものでした。ペリー艦隊の将校たちが自分たちを見ているのに気づくと、二人は「檻」のなかから、板切れを差し出します。そこには、立派な漢文が書いてありました。 およそこういう内容です。「私たちは今、捕えられ、屈辱的な境遇にあるが、みずからかえりみて、やましいことは何もない。私たちは、天から試されている、と思っている。残念ながら世界を周遊するという私たちの志は挫折し、今は飲食や睡眠さえ困難な環境にある。いったい私たちは、泣けばいいのか、泣けば愚かな人のように見えるであろう。それなら、笑えばいいのか、笑えば悪い人のように見えるであろう。今の私たちにふさわしいのは、ただ沈黙のみである」。 強大な軍事力を背景に日本政府を脅迫し、わがもの顔で日本の町を歩きまわっているペリー艦隊の将兵から見ても、二人の態度には、襟を正さざるをえないものがあったようです。それを見たペリー艦隊の将兵は、二人を「哲学的安心立命の境地にある」とまで評しています。 その二人とは、いったい誰なのか? いうまでもありません。 それは吉田松陰と、松陰の弟子の金子重之助です。当時、松陰は数え年で二十五歳、重之助は、その一歳年下の二十四歳でした。 「檻」のなかにいる二人のようすを聞いたペリーが、日本政府の役人に、「二人は、どういう裁きを受けるのですか?」と質問したところ、「たぶん死刑にはならないだろう」という返事でした。しかし、そのあと、二人の運命がどうなったのか……、ペリーは何も知らないまま、日本を離れました。
これが実話なのか小説なのかはわからない。吉田松陰の研究者は彼を神のように扱うので割引も必要だが1854年4月25日下田の海は荒れていたようだ。素人の操船では旗艦ポーハタン号にたどり着くことさえ死の危険があっただろうに。事実ポーハタンに乗り込んだ後、漕いでいた小舟は手荷物もろとも海に消えていた。
ふつう「松陰の獄中教育」というと、松陰が嘉永七年十月、萩の野山獄に入れられたあとの教育のことを、思い浮かべる方が多いと思います。けれども、ここにも見られるように松陰の「獄中教育」は、すでに嘉永七年三月、下田の「檻」のなかで開始されているのです。
それでは、その下田の「檻」のなかで、いったい松陰は、何を語りつづけたのでしょうか? 松陰が書いた記録(『回顧録』)によれば、その時、松陰は、「日本が日本である根拠とは何か? 人が人である根拠は何か? 日本を侵略しに来る外国人たちを、私たちは、なぜ憎むべきなのか?」という話をしたそうです。 他の囚人たちは、はじめはその「講義」を、むりやり聞かされていたわけですが、そのうち、松陰の話に耳を傾けるようになります。やがて感動しはじめ、ついには皆、涙を流しながら聞いてくれるようになりました。 相手は、ふつうの人ではありません。何かしらの罪を犯して獄舎に入れられている人たちばかりです。そのような人たちを相手に、松陰は、「日本とは何か、人はどう生きるべきか、日本に押し寄せてくる外国に、どう対処したらよいのか」などという〝かたくて、むずかしい話〟をしつづけました。そしてとうとう感動させ、やがて涙まで流させた……というのは、ある意味〝奇跡〟のような話です。
- ピーコック(USS Peacock)、帆走戦闘スループ、509英トン
- 1835年艦隊設立時の2隻の内の1隻。
- コンステレーション(USS Constellation)、帆走フリゲート、1265トン
- 1797年就役のベテラン。アヘン戦争勃発に伴い、米国人保護のため中国に派遣された。
- ボストン(USS Boston)、帆走戦闘スループ、700トン
- アヘン戦争時、コンステレーションと共に、中国に派遣された。
- ヴィンセンス、帆走戦闘スループ、700英トン
- コロンバスと共に、浦賀に来航。
- ドルフィン(USS Dolphin )、帆走ブリッグ、224英トン
- 1848年5月に東インド艦隊に所属し、1850年7月までアジア水域での米国民間人の保護にあたった。
- サラトガ(USS Saratoga)、 帆走戦闘スループ、882英トン
- ミシシッピ、蒸気外輪船フリゲート、3220英トン
- ペリーの乗艦として1853年5月に上海に到着し、ここでミシシッピは旗艦任務をサスケハナに譲った。ペリーの日本訪問には2度とも参加。
- ポーハタン、蒸気外輪フリゲート、3765英トン
- マケドニアン(USS Macedonian)、帆走フリゲート、1341英トン
- ペリーの第二回日本訪問艦隊の1隻。その後3年間東インド艦隊に留まった。
- サン・ジャシント(USS San Jacinto)、蒸気スクリューフリゲート、1567英トン
- 初代駐日アメリカ領事タウンゼント・ハリスを日本に運んだ。ハリスは1856年3月、ペナンで乗船。しかし、エンジンの不調により香港での修理を余儀なくされ、日本到着は8月となった。その後上海に向かい、アロー戦争に関与することになる。1858年まで東インド艦隊に留まった。
- ポーツマス(USS Portsmouth )、帆走戦闘スループ、1022英トン
- アンドリュー・H・フット代将の旗艦として1856年東インド艦隊に所属。同年8月、アロー号戦争の勃発に遭遇し、珠江沿いの中国の要塞から攻撃を受けた。その報復として乗艦ポーツマスおよび僚艦レバントから部隊を上陸させ、広東の防塞を占領した。
- レバント(USS Levant )、帆走戦闘スループ、792英トン
- 1856年5月、ウィリアム・スミス代将の旗艦として、東インド艦隊に所属。同年8月、アロー号戦争の勃発に遭遇し、僚艦ポーツマスと共に部隊を上陸させ、広東の防塞を占領した。
- ジャーマンタウン(USS Germantown)、帆走戦闘スループ、939英トン
- 1857年12月にジョサイア・タットノール代将が指揮をとる東インド艦隊に配属される。その後2年間、中国および日本水域で活動。南北戦争時には南軍に所属。
- サギノー(USS Saginaw )1860年、453トン
- ハートフォード(USS Hartford)、蒸気戦闘スループ、2900英トン
- 1859年東インド艦隊の旗艦になる。南北戦争時には米国に戻るが、1865年再び極東に派遣され初代のアジア艦隊旗艦となる。
- ジェームスタウン(USS Jamestown)、帆走戦闘スループ、1150トン
- 南軍の私掠船から合衆国艦船を守るため派遣された。
- タ・キアン、スクリュー改装軍艦、510トン