出版社 筑摩書房
発売日 2008/5/8
前者は2年に及ぶロングインタビュー 後者は田中清玄死後24年後に周辺第三者証言を豊富にして再構成したもの。このようなやり方は全く卑怯なやり方だ。田中清玄は1993年12月10日に死去している。 私は自伝は95%本当のことを言っていて、99%言っていない部分があるのだと思う。つまり正確でないのは3%だろうが、後者は大ホラ吹き田中清玄に貶められている。そう考えると田中清玄はあたかも杉山茂丸のような扱いになる。しかしそのような偏見を本人の死後に世間に植え付けるのは実に卑怯なやり方であろう。作家の海音寺潮五郎も勝海舟の欠点について話を面白くわかりやすくするところと、どこかに書いているらしいが、田中清玄や杉山茂丸など、身分も所属も財産もないそういう偉人傑物は怪しく描いて得をするそういう世間の口はざらにある。国士は固有名詞や関係を曖昧にする。それをひろってどうだこうだ書いてもしょうがない。
しかし『評伝』の方での収穫は、まだ福本和夫に影響されていた左翼の中にあった田中清玄がソ連共産党GPU寺田(本名高谷覚蔵:コミンテルン極東部員、KGBの極東主要メンバーとして活動。その後、寺田は極東でオムス (Отдел международных связей)OMSに属し本書『田中清玄自伝』1993年によれば、リュシコフはオムス国際協力局のボスだったゲンリフ・リュシコフ(後1938年満洲に亡命日本軍に対ソ情報協力)の片腕となる。)というチェキストとの接点だ。
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ソ連では、チェーカー勤務者や一般に国家保安機関に勤務する者のことをチェキスト(чекист チキースト・非常委員)と呼んだ。西側諸国ではチェキストという名称は「反革命の血で汚れた人物」のことを指す侮蔑語として用いられた。また、チェーカーに限らず、チェーカーの系譜に繋がるGPUやKGBの構成員もこう呼ばれた。
ロシア語での正式名称は反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会(Всероссийская чрезвычайная комиссия по борьбе с контрреволюцией и саботажем)で、略称はヴェーチェーカー(ВЧК ヴェチェカー)となる。「チェーカー」と呼んだ場合にはこの名称から「全ロシア」が取れることとなる。その管轄がロシア共和国に留まらなかったことからこう呼ばれる場合もあるが、「ヴェー」抜きで呼んだ場合は「全ロシア非常委員会」の各都市の支部を指す可能性もあり、正式名称に沿って「ヴェーチェーカー」と呼ぶ事が好まれる。
以上のような用法はソ連でも使われていたが、言葉の意味合いはかなり異なっていた。チェキストの呼び名は祖国を保衛する重責を担う人々への尊称とみなされており、チェーカーを設立したレーニンも「よきコミュニストはよきチェキストでもある」という言葉を残している。なおソビエト連邦の崩壊後のロシアでも、ある情報関係者が自分たちを「チェーカーに属している者」と表現し、その場の少なからぬ関係者の同意を得るという一幕があった。
The OMS was supervised by the "Illegal Commission," sion," made up of senior Comintern officials but usually including an official of the foreign intelligence arm of the KGB as well. In 1923, for example, the Illegal Commission consisted of two senior Cominternists along with Mikhail Trilisser, the KGB's foreign intelligence chief in the 1920s. In May of that year it met to consider whether the American Communist party was maintaining the proper balance between legal and illegal work. After a discussion with Israel Amter, the CPUSA's representative to the Comintern, it issued a number of directives designed signed to enhance the CPUSA's capacity for "secret work."6
オムスの存在はその名称さえ1993年に日本で初めて田中の口から、『自伝』から2007年に明らかにされるが、この秘密組織はインタビューから2年後英文で明らかになるヴェノナ文書にも記載があり、米国でヴェノナ文書が公開されたのは1995年、もちろん英文なので田中の1993年の発言は国際的に裏付けの取れる信憑性の高い証言である。1935年5月寺田こと高谷は1935年2月帰国。その後検挙され転向、陸軍参謀本部第5課(対ソ情報)嘱託として勤務した。寺田と田中は弘前高校の時代(活動資金はどうやっていたかは不明)から函館に出入りする漁船上で接点を持っていた。これがこの本で知れてこの自伝価値は真実である証拠が十分だ。一方で同郷の親戚という縁で。。渋川善助も登場するが、どれほどの親戚かは不明。自ら語る出自には疑問が残る。
そして、またまた見つけましたよ戦後史の陰の人物天川勇氏(福田赳夫元首相の智恵袋)石原慎太郎の師匠。戦前戦後を通じて彼は明確に米国の手先だったんですね。天川氏は半導体研究者・岩瀬新午を国の研究から淡路島の同郷の経営者で懇意だった井植歳男の民間企業に引き抜いた。次世代軍事技術を征すると考えられていた合成半導体を独力で商品化直前までやり遂げた岩瀬新午を日本政府から引き離すということの意味と意義は米国にはわかっていただろう。
岩瀬は1950年10月に日本で最初にゲルマニウム結晶を用いたトランジスタ増幅現象を確認している。電気通信省電気通信研究所(通研)で「トランジスタの研究プロジェクト」が2月に発足してから8ヶ月後、ベル研究所からトランジスタの発明が公表されてから1年8ヶ月後、にも早くから引き抜くことを注目していた。これは外国の指示でしょう。さもなくば暗殺されたかもしれない。
人脈
天川勇の娘さんは安倍晋三の通訳をやっている。天川と米国の許可のもとに福田も石原も清和会も政治をやれていた)唯一の例外田中角榮以外は。
『田中さんは確かに天才的な人でしたね。今日でも田中さんに対してはいい人だし、そもそも俺はあのロッキード事件というのは、アメリカの差し金と信じているから、何とか名誉回復もしてあげたいと思っています。ただ惜しむらくは田中さんの周りには、知性のある人は一人もいなかった。早大雄弁会の竹下や、金丸程度が関の山』
p150の記載が光る。
CIA組織が日本で生まれたということがよくわかる。1949年『あれは一九四九年(昭和二十四年)十二月のクリスマスパーティーに、GHQアーモンド参謀長に招待されて、練馬の米軍キャンプに行った時のことです。このパーティーには当選したばかりの中曽根君早川崇君などの政治家、それに天川という戦時中は海軍の嘱託をしていた男も招かれていましたよ。僕は朝日新聞の進藤次郎を連れて行ったんですよ。』このパーティーで中国がソ連の手引きで朝鮮半島に侵入することを田中は予言していたが、この警告を馬鹿にしてだれも相手にはしなかった。皮肉にもアーモンド参謀長*は国連軍参謀長を兼務し多忙となる。翌1950年6月、38度線を越えて北朝鮮が攻めてきたことは歴史の示す通り。
*アーモンド参謀長(エドワード・マロリー・アーモンド(Edward Mallory "Ned" Almond、 1892年12月12日-1979年6月11日)は1950年6月、朝鮮戦争が勃発すると7月24日に国連軍参謀長を兼任。仁川上陸作戦に際して第10軍団長。1951年、中将。1953年1月、退役。田中清玄の情報源はアンドレイ・アレクサンドロヴィチ・ジダーノフ系列のソ連幹部:ソビエト連邦最高会議議長(1946年3月12日 - 1947年2月25日)、ジダーノフはスターリンの後継者の一人、事実上ナンバーツーとみなされていたが、1948年8月31日、モスクワで急死した。その死には、スターリンが関与しているとも言われるが定かではない。ジダーノフは、抑圧的な文化政策の実行者としての一面で、共産党とソ連の民主化に関心を示していたとも言われる。死の直後にレニングラード事件が「発覚」し、レニングラードに根拠をおく党幹部は悉く粛清された。田中清玄の連絡の日本トップはカール・ヤンセン1だった。
1950年、ゴスプラン議長ニコライ・ヴォズネセンスキー、ロシア共和国閣僚会議議長ミハイル・ロディオノフ、党書記アレクセイ・クズネツォフ、ピョートル・ポプコフ市長、ヤーコフ・カプーシチン、ピョートル・ラズーチンが死刑判決を受けた。「共犯者」の残りは、それぞれ異なる刑期を言い渡された。
同時に、ソ連当局はレニングラードの党及び政府の指導部を刷新した。約2千人
が指導部を追われ、2百人以上がその親類縁者共に弾圧された。告発された全員が、後に(多くはその死後に)名誉を回復された。
田中清玄とソ連を結ぶ工作員も1948年秋の時点までに暗殺を知らされていなかった。武装時代はOMSオムスとの接触があったようだ。オムスはヴェノナ文書にもでてくるコミンテルン内の秘密組織で資金と武器を供給する国際窓口だ。たぶんこのナージャと名乗る女性もオムスの一員で帰国後粛清されたのでしょう。田中清玄は池田成彬を通じて吉田茂に警告した。三鷹事件、松川事件の本質も田中清玄のいうとおり、ソ連の後方かく乱とみてよいでしょう。
池田成彬 は吉田の大磯屋敷と敷地が隣だった。国際的にはオットー大公【オットー・フォン・ハプスブルク(ドイツ語: Otto von Habsburg, 1912年11月20日 - 2011年7月4日)ドイツ、オーストリア、ハンガリー、クロアチアの市民権を持ち、欧州議会議員や国際汎ヨーロッパ連合国際会長を務めるなど、汎ヨーロッパ主義的に活動した政治家でもある。戦時中には「ドナウ連邦」樹立を、戦後は欧州統合を提唱した。汎ヨーロッパ・ピクニックの中心人物】の友人(最初がどういう出会いだったのかは自伝中では隠されている、たぶんコミンテルンからの縁だろう)というのが効いている。フランスの侠客レジスタンス、ジャック・ボメールとの出会いも暗殺されたイタリアの共産主義者教授との出会いも、ハイエクと出会う縁もオットー大公がアシストしている。しかしモンペルラン・ソサイエティ*のユダヤ人セクト化にも反発し退会している(モンペルラン・ソサイエティはオットー公退会の時点で崩壊 その後WEFと名前を変えて蘇っている)。
*木内信胤の「世界経済調査会」は、事実上の日本モンペルラン協会として機能した。1970年代にハイエクが来日した際、世界経済調査会の講演で「三大消極価値」(Three Great Negative Values)という思想を発表している[2]。
なんと田中は昭和天皇にも直言していた。一回きりの面会だが事実上混乱期の天皇の顧問であり、天皇裕仁は提言のとおりに実行した。右翼として児玉誉士夫と岸信介を憎んでいた。田岡との申し合わせのおかげで日本に麻薬マフィア、武装マフィアができなかった。小菅で知り合った水戸出身の「右翼」、橘孝三郎を尊敬している田中の表明は実に人を見る筋がいいので好感が持てる。橘考三郎の戦後の苦しい時の書籍刊行にも協力している。人を見る筋が良いということが彼の人脈を世界的なものに育て上げる。
中国との縁は宇都宮徳馬がつくってくれた《宇都宮は事業的にも思想的にも天才で、ずいぶん厄介になったねえ。親父は宇都宮太郎という陸軍大将で、親父の副官がしょっちゅう来ているから情報が入るんだ。日中友好協会なんかは彼のお陰ですよ》。従軍慰安婦のことを信じ切っていたのは友人が朝日新聞の進藤だったからだろうな。田中清玄は戦争に行ってないし、陸軍の出征地の現実を知らない。鄧小平にコロリといったのも共産主義の全体主義本質を成功と称賛していたから。こういう自由を愛するロイヤリスト(天皇制支持者かつ全体主義者)が敵に回ると危険な人物なのです。
1963年11月9日午後6時9分ごろ、右翼活動家・田中清玄が、東京會舘の前の路上で、暴力団東声会組員・木下陸男に銃撃された事件を起こす。町井#の指示と吐いたが、当時はまだ田中清玄も相対的に民族派だった、田中清玄は児玉誉士夫にやられたと言っている。日本の「右翼(朝鮮人を中心とする)」はCIA工作の強烈な資金磁石に吸い寄せられるように間接的に敗戦利得者たちに吸収されてCIAの支配下におかれてしまう。田中はこういう連中とは無縁超然としていた。
#町井久之の前史
1945年
(8月22日)在日朝鮮人の全国組織として、在日本朝鮮人連盟(朝連)準備会が結成される。町井久之と関係の深い、親日派の権逸が副委員長に選出される。
(10月15日)朝連の結成集会で、日本共産党幹部の金天海が最高顧問に選出される。金天海は、権逸などの親日派や民族主義者を朝連から追放する。
(11月16日)朝連の左傾化に反発する在日青年らが、在日本朝鮮建国促進青年同盟(建青)を結成。学生時代から町井と関係が深い、李禧元が副委員長に就任。建青はGHQから資金援助や、特別配給を受けることになる。
(11月29日~30日)神田で建青と朝連が乱闘(神田市街戦)。町井は建青の助っ人として乱闘に加わる。建青体育部長を務めていた大山倍達も参加。事件後、GHQは建青側の健闘を賞賛。
言わせておけ「ほっとけ、今に恥をかいて自滅する。」こういう考え方は国士態度として好ましく思う。1930年に起こした和歌浦事件に連座して逮捕禁錮11年1933年に田中清玄と佐野博、佐野学ともに転向し、1941年に出獄した。これを諌めるために田中清玄の母は自殺した。国士も1977年3月に函館で母親の法要をしたが、治安維持法違反で逮捕された我が子の罪を苦しみ自殺した母親の話を聞いて顔を覆って嗚咽した。
著者
田中清玄 (たなか きよはる 通称セイゲン)
1906‐93年。北海道生まれ。1927年、東大在学中に共産党に入党。30年の再建大会で書記長となり、武装共産党を指導する。34年に転向し、戦後は“大物フィクサー”として、日本国内はもとより中東やインドネシア、中国など国内外で活躍した
大須賀瑞夫 (おおすが みずお)
1943年福島県生まれ。67年、早稲田大学政経学部を卒業し、毎日新聞社に入社する。東京本社政治部、サンデー毎日編集部、政治部副部長などを経て96年に退社。フリーのジャーナリストであった。2018年11月30日に亡くなりました。
評伝田中清玄は本人死後のテープの発見から自伝を離れて書いた。
- ^ Carl Jansen、ラトビア出身。1925年5月頃-1927年1月、日本で活動した。--渡部富哉 「ゾルゲ事件の真相究明から見えてくるもの(連載2-5-2)」リンク切れ。
戦後も共産主義外国勢力の爪痕は日本人の思想傾向に刻まれ、洗脳手法を繰り返し効果を上げた。以下はウィキペディア情報。原本は産経新聞 2014年7月、イギリス国立公文書館が所蔵する英国内のスパイ摘発や国家機密漏洩阻止などの防諜を担うMI5などの秘密文書のうち、「共産主義者とその共感者」と名付けられたカテゴリーに「ノーマン・ファイル」(分類番号KV2/3261)があることが公表され、ガイ・リッデルMI5副長官からカナダ連邦騎馬警察(RCMP)ニコルソン長官に宛てた1951年10月9日付の書簡内で「インド学生秘密共産主義グループを代表してインド人学生の共産主義への勧誘の責任者を務めていたノーマンが1935年にイギリス共産党に深く関係していたことは疑いようがない」と記されていたことが明らかになった[4]。 また、同ファイルには、GHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官だった米国外交官、ジョン・エマーソン(英語版)がノーマンの共産主義者疑惑に関連して米上院国内治安小委員会で証言した記録が含まれており、その中で、GHQの対日工作として行なった「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」(軍国主義者と国民を二分化することで日本国民に戦争に対する贖罪意識を植え付け、米国への戦争責任批判を回避するための戦略)は、中国・延安で中国共産党が野坂参三元共産党議長を通じて日本軍捕虜に行なった思想改造のための心理戦(洗脳)の手法を取り入れたと証言したことが明らかになった[6]。《GHQは、終戦直後の昭和20年9月に「プレスコード」(新聞綱領)を定めて言論を統制し、一般人の私信まで検閲を実施。10月には、「日本人の各層に、敗北と戦争を起こした罪、現在と将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国による軍事占領の理由と目的を周知徹底する」との一般命令第4号を出した。さらに、12月8日から全国の新聞に『太平洋戦史』を掲載、翌日からラジオ番組『真相はこうだ』を放送させ、戦勝国史観を浸透させた。》産経新聞より一部引用