今度は石井寛訳を読んでみる。
まず、なぜ内村鑑三が中江藤樹を選んでいるかということ。このことをおさえておこう。
『現代の教育システムー徳を押し付け、天才を仕込もうとする教育システムは、我々の心にはびこる野卑なるものを押しとどめることができるのでしょうか。今こそこの国は多くの藤樹を必要としているのです。』
内村鑑三の問題意識は、これに尽きるのではないでしょうか。この本はキリスト者として欧米人に日本人を紹介している形式をとりながら、当時の日本人の精神軌道を心配していたことは疑いない。
日本の19世紀末から20世紀の初頭にかけて、知識偏重エリート主義と徳のない権威主義の跳梁の両輪が一等国を目指して加速度を増した時に、感化による人間社会の形成が消失すると危惧していたに違いない。
日本の精神水準をもたらした無名の聖人達が日本には歴史上無数にいること。このことに注目していた内村鑑三は、キリスト教を学んで日本人の精神性の偉大さに気づいた最初の日本人の一人ではないかと思う。
内村鑑三が偉大なのは、霊的次元で宗教を捉えている、また科学も其のように捉えているということなのです。
「人は宗教と科学との衝突をいう、けれども私はいまだそうであると認めることができない。宗教は霊界の科学的考究の結果ということができるであろうし、科学は物界の宗教的観察ということもできるであろう。我々は宗教を攻究するに科学的方法を応用するを恐れないのみならず、普通の科学的常識にかなわない宗教的思想は棄却して採用せず、またこれに対して科学的研究法に宗教的精神の用なしと信ずる者は、いまだ科学宗教を両方とも解していないものといわざるをえない。それは真率な心、謙遜の心、すべてのものに優って真理を愛する心は、宗教においても科学においても最終最始に必要であるからである。
故にいわゆる宗教と科学との衝突なるものは、両者の研究物の差異より来たものといわざるをえない。同一の精神と同一の研究法とをもって、霊界を観察して宗教あり、物界を観察して科学あり、天文学と地質学と衝突あるのではなく、ただ天と地との差あるのみ、宗教と科学との別もまたこの類である。」
虚であることが謙虚の前提。大いなる虚に基づく大誠意の前に法や説教は無意味という鑑三の自覚が、間接的に吐露されている。キリスト者として聖人とは何か、これを極めると儒学でも、仏教でもなく、中江藤樹の短い人生の影響力を重く見た。
内村鑑三自身もまた聖人の一人だろう。
内村 廣井 新渡戸
まず、なぜ内村鑑三が中江藤樹を選んでいるかということ。このことをおさえておこう。
『現代の教育システムー徳を押し付け、天才を仕込もうとする教育システムは、我々の心にはびこる野卑なるものを押しとどめることができるのでしょうか。今こそこの国は多くの藤樹を必要としているのです。』
内村鑑三の問題意識は、これに尽きるのではないでしょうか。この本はキリスト者として欧米人に日本人を紹介している形式をとりながら、当時の日本人の精神軌道を心配していたことは疑いない。
日本の19世紀末から20世紀の初頭にかけて、知識偏重エリート主義と徳のない権威主義の跳梁の両輪が一等国を目指して加速度を増した時に、感化による人間社会の形成が消失すると危惧していたに違いない。
日本の精神水準をもたらした無名の聖人達が日本には歴史上無数にいること。このことに注目していた内村鑑三は、キリスト教を学んで日本人の精神性の偉大さに気づいた最初の日本人の一人ではないかと思う。
内村鑑三が偉大なのは、霊的次元で宗教を捉えている、また科学も其のように捉えているということなのです。
「人は宗教と科学との衝突をいう、けれども私はいまだそうであると認めることができない。宗教は霊界の科学的考究の結果ということができるであろうし、科学は物界の宗教的観察ということもできるであろう。我々は宗教を攻究するに科学的方法を応用するを恐れないのみならず、普通の科学的常識にかなわない宗教的思想は棄却して採用せず、またこれに対して科学的研究法に宗教的精神の用なしと信ずる者は、いまだ科学宗教を両方とも解していないものといわざるをえない。それは真率な心、謙遜の心、すべてのものに優って真理を愛する心は、宗教においても科学においても最終最始に必要であるからである。
故にいわゆる宗教と科学との衝突なるものは、両者の研究物の差異より来たものといわざるをえない。同一の精神と同一の研究法とをもって、霊界を観察して宗教あり、物界を観察して科学あり、天文学と地質学と衝突あるのではなく、ただ天と地との差あるのみ、宗教と科学との別もまたこの類である。」
虚であることが謙虚の前提。大いなる虚に基づく大誠意の前に法や説教は無意味という鑑三の自覚が、間接的に吐露されている。キリスト者として聖人とは何か、これを極めると儒学でも、仏教でもなく、中江藤樹の短い人生の影響力を重く見た。
内村鑑三自身もまた聖人の一人だろう。
内村 廣井 新渡戸