公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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阿部定 お定さんについて 坂口安吾

2015-03-10 20:14:06 | 意見スクラップ集
2・26事件の起こった昭和11年5月、阿部定事件が起きた。その定ことお定さんに坂口安吾が11年後、昭和22年にレビューしていることをご存知だろうか?騒がれすぎた事件というのが坂口安吾の評価である。お定さんは異常者ではなく普通の人として評価し描かれている。時代がファッショに進みだすとこんな事件がおこる。手品を完成させるために国民には目をそらしていて欲しいのだ。
坂口安吾は特攻隊についても書いたが、黒塗りにされた。


天皇陛下が自ら鎮圧したはずの2・26以降政治は変わっても、日本人の頭の上を塞いだ軍の実行力と結合した世間は修正されてはいなかった。不思議なめぐり合わせだが、5・15事件の前日にチャップリンが来日し、2・26事件の翌日にも今度は予告なく来日している。チャップリンとは何者だったのか?
広田弘毅は天皇陛下の信頼を得ていたとはいえず、陸軍は暴走の第一歩として好ましからざる人物として吉田茂(外相)、川崎卓吉(内相)、小原直(法相)、下村海南、中島知久平を名指し閣外に外した。そんな國の根幹がぐらついている時に、好奇の目を集めて国民が新聞に煽られて世間の口を賑わせた、性交中の過失絞殺、陰茎切断愛蔵の顛末は飛ぶように売れた。軍部現役大臣が解禁されて、後ろ盾のない広田弘毅はパペットになってしまった。

昭和12年の総辞職以降の広田弘毅は全く無気力だった。もう少し天皇陛下の信頼を得ていたら、あるは2・26事件後の総理大臣がせめて広田弘毅でなかったら、大陸政策は変わっていたかもしれない。そんなことが悔やまれる。それにもかかわらず広田弘毅は絞首刑になった。大谷敬二郎憲兵隊長の手記に詳しいが、客観的に検証されてはいない。しかし石原莞爾と浅原健三の策略を忘れてはならない。

『広田をすべての訴因において無罪としたオランダ代表の判事は、「文官政府は軍部に対しほとんど無力であった」ことを認め、その限られた枠の中で広田が十分な努力をしたと主張した。広田の死刑は、検事団にとってさえ意外であり、キーナン首席検事は「なんというバカげた判決か。絞首刑は不当だ。どんな重い刑罰を考えても、終身刑までではないか」と慨嘆した。』

しかし、これには別の解釈をする人がいる。その方がおかしなところの説明がつく。無気力になるのも無理はなく、東条英機も広田も天皇の別の諜報組織に口が出せなかったというのだが、真相は墓の中だが、残置戦力としての吉田らの追放組は何かを暗示している。つまり避けられない戦争ならば、なるべく傷を小さくして短期に終わらせるのが賢明と考えた上で、戦後のプランを敷いたと考えられる。



広田弘毅の後ろ盾のない身分の低い名門とはいえない出自が不幸であった。
当初の立案者石原莞爾の限界線を超えた内陸部進攻、2・26事件の暴走を止めた天皇陛下は内部統制の崩壊に気づかぬはずはないだろう。これは未必の故意かもしれない。責任を問うとしたら政治の真空を醸したこの時点がふさわしい。

蒋介石との和平交渉も一貫性がなく、昭和12年から始まった和平交渉は当事者が変わりすぎている。日本政府は近衛文麿、外相の広田弘毅、陸相の杉山元、海相の米内光政と短期間に遷移する。南京進攻、南進路線の確定までの時間を稼がれていたとしか思えない。この交渉が天皇陛下の後ろ盾で行われていたら、トラウトマン和平工作は成功していたかもしれない。反共で国民党政府の憂慮なく北進へ転換していれば、着地点は複数見出せたはずだ。もちろん交渉先は開戦前のアメリカ合衆国政府。追補2015.11しかし馬渕氏の近著によるとアメリカは社会主義者たちに乗っ取られていて反共で日中が落ち着くことはトラウトマンに妨害が入ったかもしれない。そのくらい中共の背後でアメリカが動いていた。

天皇陛下の組閣方針:歴代総理に与えられた3ヵ条 第一 憲法の規定を遵守して政治を行なうこと。第二 外交においては無理をして無用の摩擦を起こすことのないように。第三 財界に急激な変動を与えることのないように 第四 名門を崩すことのないように(貴族院に手を出さない)。天皇陛下がこれだけいいぱなしというのはどう見ても、あまりに弱いオーナーのリーダーシップだった。すでに1~3はもうその時点で空文化していた。変ではないだろうか。明らかに見ていて何もしていない。政界と軍部に跳梁跋扈する近衛のしくじりを望んでいたのかもしれない。この時の深謀遠慮が國に不幸をもたらしたことは誰の目にも明らか。

2か月半をかけて、蒋介石との交渉打ち切りを主張する米内光政海軍大臣が大本営政府連絡会議で「内閣総辞職」で恫喝した。という。こういう変な人はしばしば海軍に現れるが、それにしてもなんという開き直りだろう、筋が通らない。変ではないだろうか。交渉の当事者が交渉を打ち切るべしと恫喝するのは、最初から見込みが無いか合意を見込んで交渉していないに等しい。
この時一体誰が國の主権者だったのか?空気のような世間、軍人の考える理想に媚びる空気が充満していたから天皇陛下の意向に反して摩擦を大きくすることも可能だったのか。私は本当にパペットだったのは天皇陛下だったのではないかと思う。誰かが敗戦後のプランを描いた上で、来るべき戦後着地点が陛下の親政再開だったのだろう。ちなみに米内は釧路で死んだのだろうか?

予め軍により好ましからざる人物として閣僚から削除された者達こそ本当の売国のエージェント(残置戦力)、破壊後の支配布石だった。その指令を描いたものが間違いなく真犯人だ。
では誰が亡国が明らかな南進路線を選択させる真犯人か。難しくはない。亡国となっても海外で生存で得きる人物と資本投下の動きと分布の重なるところを見れば一目瞭然だ。事実戦後40年余り経過した昭和61年まで日本は日露戦争の戦費債権(これはほんとうの意味での國の借金)の完済した。この事業継承の忠実さはなんだろう。
皮肉にも精魂尽き果たしたあとで、誰もここまで繁栄するとは予想しなかった資本の力(国民の力)を世界に見せつけた。
81年後に完済したのは紛れも無い事実だ。日本人はギリシャとは違う信用のできる民族だということを世界が知っている。日本人だけが知らない。<皇室の名誉と誠実>を守り過酷な約束履行のために国民は悪魔的債権者と取引して、独立を維持するための捨て身の戦争を実施し、国民が辛酸をなめたのだ。
もし日露戦争を妥協で回避してこの道を選ばなければ、死者ははるかに少なかったろう。しかし日本はリトアニアやベラルーシのようなロシア語を話す國、属国を国是とする國になっていたことだろう。

残置戦力達、川崎卓吉は昭和11年に急死してしまうが岩崎家の閨閥、すなわち三菱の利害関係者、小原直は戦後吉田内閣の法務大臣であり吉田の盟友、敗戦でもっとも重要な役割を果たした玉音放送の陰の主役主催者下村 宏「天皇陛下におかれましては、全国民に対し、畏くも御自ら大詔を宣らせ給う事になりました。これより謹みて玉音をお送り申します」エンディングのスポークスマン、岸信介よりも1年も早く戦犯指定解除された欧米に明るいエース、政友会革新同盟の中島知久平(昭和24年急死)、政治のエースは意外に短命だった。中島飛行機は三菱重工の競争者だったから長生きしてもたぶん鳩山同様政治家としては不遇だったろう。計画は計画どおりには進まなかった。もっと複雑な戦後があった。しかし残置計画以上に今日の日本を創造したのは、悪魔的債権者でも2・26の捨て身で昭和維新を導いた者達でもなかった。お定さんのような普通の国民の普通の幸せを求める地道な日々の努力だった。日本人だけが知らない賞賛すべき歴史的偉業。本当に感服、脱帽したのは「私はロシアにおけるユダヤ人虐殺に、深く憤っていた。ロシア帝国に対してたちあがった日本は神の杖である」とのち回想録に記した人、完済の60年前にすでに死んでいた悪魔的債権者ジェイコブ・シフ(本名ヤーコプ・ヒルシュ・シフJacob Hirsch Schiff 1847年1月10日 - 1920年9月25日)だったろう。

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