公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

哲学に欠けていること 思考の大きさという指標 Wolfram

2020-02-07 18:26:00 | モナドの呪縛

伝統哲学に欠けていること。それは思考の質や属性ではなく、思考の大きさという指標
もはや思考は質ばかりではない。思考の大きさが哲学に必要な時代である。脳は多層的に刺激を解釈リレーする機械である。機械学習が思考かどうかを判別する方法は後で述べる。

数論と超越関数の接点を定理化したクロネッカーの有名な言葉に「整数は神が作られた。その他は全て人の仕事である。」という比喩があるが、クロネッカーの言う神を宇宙開闢を舞台としたより大きな思考と考える哲学が私の論点提供である。三角関数と指数関数がeiz =cos(z)+isin(z) という美しい関係 (eπi = −1) で 結ばれているという人間の発見が人間の創造ではなくより大きな物理的過程を経た思考の模倣である可能性がある。

すなわち機械学習を含めた数値エンジニアリング=哲学エンジニアリングが先端哲学の主流になるだろう。

故に現代の哲学に必要とされながら、欠けているものは、
⒈ 観測できないもの(超越的なもの)があることを数学の立場から物理的=数学的に考察していないこと。(Wolframだけがこれに挑戦している)

⒉考察自体が物理現象であることを考察していないこと。


3.純粋な数値エンジニアリングが新しい考察の対象であること。

物理過程が異なれば思考が異なる。人間の脳のキャパシティとコンピューティングのキャパシティとでは、世界の捉え方も異なる。対象はどこまでも観測可能ではなく観測自体が再構成された世界がリアルの諸形態であるから、哲学すなわち《思考を観測する思考》は人間存在や主体に限定されず、1/Xの不定積分から対数が生じるように、何らかの直感に仮想できる関数(モナド対)の不定積分によって直感の仮想力の及びやすい代数と冪根では描けない超越関数が生成されること自体、つまり数学が思考を観察する思考、哲学に相当する。それ故に機械学習が計算の力のみ未知の超越関数を発生させるときにAIに思考を観測する思考ができると証明できる。

 

 

哲学は進化の頂点動物ヒトにさえも限定されず、自由なパラメータで記述できるはずだ。思考の要素は区別と計算に還元できるが、思考の大きさは考えるというベースの物理過程の制限を受ける。

一部のゲームソフトでは機械の自己学習の領域が人間を超えて成果をあげているが、この様な物理過程の異なる思考を思考の中に加えるならば、哲学《思考を観測する思考》も変わらなければならない。エネルギーを使った情報が物理的記述が可能なものであると言ったのはR. Landauerであるが、当人に思考の機械化の可能性を拓いたという意識はなかったと思う。人類は自分の知らないところで新しい世界の扉を開く。

観測できない(観測限界)の出てくる最後のアトミズムは量子力学の運動量微小変化と位置情報の微小変化の積が一定値を超えないというバーター関係から導かれる。しかしながらこの関係も運動量に速度の概念が入り込んでいるので、実在しない時間が観測者の立脚点に考慮されている。私は物理学の完成は思考の物理過程を数式に取り込むことであると考えているので、この不都合は物理学の課題であることも承知している。したがってここは時間概念を用いないしたがって観測者を前提としない思考=物理過程を説明しなければならないだろう。その場合に私は位置情報の微小変化を情報量増加(あるいは減少)で割り算した比率を観測しない方法による運動量と定義すべき段階が来たと思う。機械思考が出現した現代にあって、もはやアトミズムの観測者超克なしに思考は解明できない。

プランク長の中に無数の情報が詰まっていると考えられる宇宙の構造(観測可能な宇宙の推定の大きさ(共動距離:直径 930億光年 = 8.798×1026 m)は、5.444×10の61 乗プランク長である。量子カオス系においてはプランク長よりも小さいスケールが現れることがある。)宇宙の粒子数は銀河の数から推定すると10の80乗であり、未発見の銀河があったとしても10の90乗前後だろう。単純に原子一個の情報が1と考えると情報あたりの宇宙サイズはざっとプランク長の10の30乗分の一ということになる。すなわちプランク長グリッドの中に10の30乗の情報がある。四つの力による相互作用が届かない(重力は微弱すぎる)プランク長の中に億の兆倍の兆倍の微細な情報構造があったとは精神世界の大発見であろう。つまり我々がどうあがいても届かない情報世界が物質の間に存在している。このことを思えば、観測できない情報の方が重要であり根源的である。情報が物質を創り出したと考えれば、神が光りあれと言って光が現れたという開闢神秘は常識に変わるだろう。

機械思考に関して言えば、思考の大きさがヒトの10倍違う思考はヒトの1000倍違う思考と機械間で100倍の重みがある。そのような序列のある世界観を人間は受け入れねばならない。これまで人間は自由であることを通じて哲学を破壊し創造してきた(逆因果もある)。 今最も哲学に近い数学をやっているにはwolframだろうと思う。彼は同世代の英雄的天才である。次に注目はgoogleの4億ドル10億のニューロネットワークででネコを発見するプログラムを実現した@@ネコ論文のクォーク・リー。次はいわば機械版ヴィットゲンシュタインを発明したトーマスことばの背景にある概念(特徴量)を数字のベクトルに変換してわずか言語間の使用言語が違っても、その背景に共通する概念を通じて自由翻訳を実現。二人どちらも機械学習の深層学習という無機質なハードの上に人間以上にしか確認されていない知性の対象を発見した。しかし知性の対象を発見したからといって無機質なハードの上に知性があると証明できたわけではない。ここにもう一人日本人英雄が加わる。彼が人間は機械と同じ無機質なアホであると証明する。基礎生物学研究所や立命館大学などの研究チーム「¥予測符号化理論」を組み込んだディープラーニングマシンを開発した中心人物@サクラリサーチオフィスの田中健太博士。「蛇の回転錯視」は、研究チームの一員である立命館大学の北岡明佳博士が2003年に考案した錯視を安価な機械上で実現しただけでなく、その原因が脳の予測機能にあることを実質的に証明した。 //-//-//-// ¥予測符号化理論: RaoとBallardによって1999年(Nature Neuroscience)に提唱された視覚系の大脳皮質の動作原理。大脳皮質は常に視覚世界の予測をしており、感覚入力と予測との誤差のみを学習しているとする仮説。 @ 基礎生物学研究所の基礎生物学研究所(神経生理学研究室)の渡辺英治准教授、八杉公基研究員、立命館大学の北岡明佳教授、生理学研究所の坂本貴和子助教、サクラリサーチオフィスの田中健太博士による成果 //-//-//-// 21世紀になり人類が思考の大きさという指標を得た以上は人間の自由が思考の大きさを破壊するほどのものか、共存するものか、あるいは組み伏せられる運命か興味深い。この物理過程の違う哲学は人間の自由の一部か否かこの問いが今も残る。国のスパコンプロジェクトにはこういう視点はない。『人間には抽出できない複雑で無数の特徴点・特徴量から、 更に規則性・法則性が抽出されることで、膨大な仮説が立案され、それらが高速に検証され、最適化されることで、人間には決して構築できない次元の理論が、多数生まれることに』なるのではないかと言っているだけだ。

 

@@ネコ論文『《機械学習のほとんどは、ラベル付きデータの量に依存していた。キャットペーパーにより、機械がラベルのない生データでも処理することができ、そしておそらく、人間が予備知識を持たないデータですら処理できることが示されたのだ。これが、人工知能全体の大きな進歩につながった》』

5/25(金) 18:12
 未知の新たな粒子、「ダイオメガ(ΩΩ)」の存在が理論的に予測された。スーパーコンピューター「京」の演算によるもので、理化学研究所(理研)仁科加速器科学研究センター量子ハドロン物理学研究室の権業慎也基礎科学特別研究員、土井琢身専任研究員、数理創造プログラムの初田哲男プログラムディレクター、京都大学基礎物理学研究所の佐々木健志特任助教、青木慎也教授、大阪大学核物理研究センターの石井理修准教授らの共同研究グループによって発表された。。。。。今回、研究グループは、、2個のΩ粒子の間に働く力を「京」によって明らかにし、ダイオメガ(ΩΩ)の存在を予言した。これは6個のストレンジクォークだけからなる最も奇妙なダイバリオンと言うべきものであり、重陽子の発見以来、約1世紀ぶりとなる実験的発見が期待できるものだ。
 なお、研究の詳細は、米国の科学雑誌『Physical Review Letters』のオンライン版に掲載されている。




認識主体と世界との関係を人間だけに限定しないそういう哲学《思考を観測する思考》が必要とされている。思考の大きさを哲学が取り扱うならば、系の状態の数を最大にすることに適合したビックデータによる機械学習の範囲に制限される機械計算は人間の瞑想と平等な《思考を観測する思考》として取り扱う必要がある。と私は思う。物理過程が人間中心でなくても計算の自由度状態の数を最大にする選択が機械学習の要素にできるのであれば、たとえ人間の設問でなくても真理が降りてくると思う。1919年に人類最初の思考を観測する思考の学問、一般意味論が生まれた。その初学的要諦は一般意味論の大部分は、現実のやりとりを妨げる精神的な性癖をやめるための訓練技術と覚え書きから構成される。3つの重要な覚え書きとして、「非A」Null-A、「非I」Null-I、「非E」Null-Eが挙げられる。非Aとは「非アリストテレス」non-Aristotelianismである。一般意味論では現実が決して(アリストテレス的)二値論理で表現しきれないことを強調する。非Iとは「非同一性」non-Identityである。一般意味論ではいかなる事象も同一ではないとし(測定限界を超えたところで異なっている可能性があるため)、「現在実行している分析の目的から見て十分類似している」と考えるのが好ましいとされる。非Eとは「非ユークリッド」non-Euclideanismである。一般意味論では我々の宇宙がユークリッド幾何学では正確に説明できないことを強調する。この三点を理解して進めば、人間が概念と言っているものや言葉をを操る行為がある誤認の集積であることに気づく。述語体系の精密さの精査を初めて行ったヴィットゲンシュタインは言葉自体を哲学の方法とすることを放棄したが、一般意味論ジェネラルセマンティックスという学問は述語体系を放棄するのではなく思考を操ることを目的として生まれた学問であるから、奴隷管理人の奴隷思想取扱規程である。例えるならば東西方向に正確に引かれた直線のそれぞれの端から直角に線分を含む平面上を走る直線は絶対に相容れないようでいて最後は北極点で合流する。つまり矛盾した体系の対立も最終的にはある一点から導き出されたものであるから、組織の中に矛盾体系(裏組織)が存在しても不都合はないという奴隷管理人の信念が重要であるとジェネラルセマンティックスは教えている。


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