公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

自然(じねん)であること

2013-06-16 09:12:30 | 日本人
山本有三の作品に「無事の人」という作品があり、為さんが語る自然(じねん)というのが、実に仏教的な境地を表している。
人間に備わった自然は、人間だけに備わったものではない。しかしながら、人間は特別な存在だというポジションを自然に対して取ろうとする。人間が神を発明するのも特別なポジションを得るための別ルートにすぎない。摩擦火炎の発見から動物とは違う行動ができるようになった人間ではあるが、それは自然法則ではあっても、自然(じねん)とは無縁である。無縁のものをいっぱい抱えて崩れ落ちそうになっているのが人間社会という自然とは無縁の世界。

さてここ数日読んでいるのが、吉村昭の「関東大震災」「海軍乙事件」。前者は日本人にかぎらず、絶対に読んでおくべき図書だ。生存者の証言はあまりに凄惨で、目を背けたくなるほどだが、これを直視せずに人間の自然を語ることはできないと思った。人間に備わった自然も、動物の自然も変わるものではない。そのように目を細めて凝視しながら火炎の中の生き地獄と、平穏ながら崩れ落ちる地獄とを重ねあわせてみるが良い。

特筆すべきは、偶然横浜にいた脚本家のスキータレツという外国人の次の証言だ。
「日本人の群衆は、驚くべき沈着さをもっていた。庭に集まった者の大半は女と子供であったが、だれ一人騒ぐ者もなく、高い声さえあげず涙も流さず、ヒステリーの発作も起こさなかった。すべてが平静な態度をとっていて、人に会えば腰を低くかがめて日本式の挨拶をし、子どもたちも泣くこともなくおとなしく母親の傍に坐っていた。」
東日本大震災の光景と同じではないか。日本人は左様に稀な民族である。もちろん略奪もあった。朝鮮人も殺された。100年を経て維持された民族性はそのような不埒者の罪によって価値を貶められるものではない。

自然(じねん)はこのようなわれわれを襲う大きな災害さえも、日々の一部として淡々と受け止める、ある種の堂々とした覚悟や生き方の境地のことである。これを学問によってではなく、織り込まれた運命、日常の継承から相互に快適な平常を諭すことによって世間を継承している日本人は特異な人々と思う。世界に生きるの普通の人々は程度の差こそあれ日本人ほどには自然をまさに自然として実践していない。

私はこれを自民族として称賛するわけだが、同時にこれは日本人の欠点でもある。なぜなら自然はプレゼンテーションとは真反対の暗黙の了解と言う実践だからだ。故に何度も過去を思い出し、明示的に言い伝える非自然を現代日本人は覚えなければならない。

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