公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

『 茶の本 』岡倉覚三

2015-04-25 12:10:58 | 今読んでる本
『おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。』

『一二八一年蒙古襲来に当たってわが国は首尾よくこれを撃退したために、シナ本国においては蛮族侵入のため不幸に断たれた宋の文化運動をわれわれは続行することができた。茶はわれわれにあっては飲む形式の理想化より以上のものとなった、今や茶は生の術に関する宗教である。茶は純粋と都雅を崇拝すること、すなわち主客協力して、このおりにこの浮世の姿から無上の幸福を作り出す神聖な儀式を行なう口実となった。茶室は寂寞たる人世の荒野における沃地であった。疲れた旅人はここに会して芸術鑑賞という共同の泉から渇をいやすことができた。茶の湯は、茶、花卉、絵画等を主題に仕組まれた即興劇であった。茶室の調子を破る一点の色もなく、物のリズムをそこなうそよとの音もなく、調和を乱す一指の動きもなく、四囲の統一を破る一言も発せず、すべての行動を単純に自然に行なう──こういうのがすなわち茶の湯の目的であった。そしていかにも不思議なことには、それがしばしば成功したのであった。そのすべての背後には微妙な哲理が潜んでいた。茶道は道教の仮りの姿であった。』



茶道に縁、無縁いずれであれ、日本人ならばだれもが茶の湯の空間を文化として咀嚼できる。それがどのように出来上がったか。確かに時代の積層がそれを創り上げた。
文化の積層は貴人から武人、俗人へと渡る。支那の宗文化に憧れを極めたのは足利義政の時代だが、喫茶は一部の貴族の資産と特権の象徴からペットボトルで茶らしきものをラッパ飲みする現代に至るまでしっかりと存在する茶の形に載せて日本人に何が継承されたのだろう。

岡倉覚三とは天心の本名で、この本は本来英文だ。


『道教徒は主張した。もしだれもかれも皆が統一を保つようにするならば人生の喜劇はなおいっそうおもしろくすることができると。物のつりあいを保って、おのれの地歩を失わず他人に譲ることが浮世芝居の成功の秘訣である。われわれはおのれの役を立派に勤めるためには、その芝居全体を知っていなければならぬ。個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。この事を老子は「」という得意の隠喩で説明している。物の真に肝要なところはただ虚にのみ存すると彼は主張した。たとえば室の本質は、屋根と壁に囲まれた空虚なところに見いだすことができるのであって、屋根や壁そのものにはない。水さしの役に立つところは水を注ぎ込むことのできる空所にあって、その形状や製品のいかんには存しない。はすべてのものを含有するから万能である。においてのみ運動が可能となる。おのれをにして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができるようになるであろう。全体は常に部分を支配することができるのである。
 道教徒のこういう考え方は、剣道相撲の理論に至るまで、動作のあらゆる理論に非常な影響を及ぼした。日本の自衛術である柔術はその名を道徳経の中の一句に借りている。柔術では無抵抗すなわち虚によって敵の力を出し尽くそうと努め、一方おのれの力は最後の奮闘に勝利を得るために保存しておく。芸術においても同一原理の重要なことが暗示の価値によってわかる。何物かを表わさずにおくところに、見る者はその考えを完成する機会を与えられる。かようにして大傑作は人の心を強くひきつけてついには人が実際にその作品の一部分となるように思われる。は美的感情の極致までも入って満たせとばかりに人を待っている。』


なぜ美が必要かと言えば、素心を映すためです。「素心を見つめるには、情動の変化と限界に注意を向けること、あるいは理の断絶と限界に注意を向けることが肝心。理の限界が妙であり、情の限界が美である。妙や美は素心を映す鏡のようなものであり、妙美は理の断絶と情の臨界を通じて己の幻想性自覚を促す電撃である。」


『東洋は、西洋について学ばねばならない。だが西洋は、東洋についての既成の知識をすて去るべきではなかろうか。厖大な情報網をもちながら、西洋には、いまだにわれわれについての誤解がどれだけ多いことか。思慮分別のない大衆は、人種的偏見と、十字軍以来の遺物である東洋にたいする漠然たる憎悪感に、今なお支配されている。比較的知識のある者でさえ、われわれの復興の内的意義と、われわれの志向の真の目標を認識してはいない。』

『禅を定義して南天に北極星を識るの術といっている。真理は反対なものを会得することによってのみ達せられる。さらに禅道は道教と同じく個性主義を強く唱道した。われらみずからの精神の働きに関係しないものはいっさい実在ではない。』

断っておくが、禅とは術ではない。しかし禅に通じる共感知性という精神の経路がある。日本人の情緒に独自に潜む大いなる虚に基づく大誠意 (これを侘び寂びと言うは、物好きの軽薄。)の文化的構築が茶道と共感知性との出会いであろう。

しかし禅はこれを会得することにより問題解決に使える局面がある。すなわち


全体は常に部分を支配する。これを得た茶道は無敵の武術です。この本をちゃんと読むまで茶道を武術と考えたことがなかった。岡倉天心に学ぶことができるとは幸せだ。今度は英語で読んでみるか。


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