グー・チョキ・パー説は私のオリジナルと思っていたが、さすがインド哲学には三者の先行事例がある。
ただしインド哲学では三者の相剋までは述べてはいない。人間種人生の最終目的は価値観(法:人倫の掟)=ダルマを継承することというのが古代インド哲学らしい。したがって初学幼少はアルタつまり功利を修める経済の基い=得失の算術を身につける、次に性徴して男女はカーマを修め人類種の繁殖の基盤となる性愛(実践的恋愛術)を身につける、そして最後に先達古老となり権力、法と秩序によって支配するダルマを修了し次世代に教える立場になる。
一方、私説である人間社会の下半身グー・チョキ・パー説は似ていて三者相似的で対応するが、しかしグー・チョキ・パー説は世代を超えた文明永続を価値観としていない。導きの糸を示すだけである。
ここに示すように日本人は無常を受け入れているから、価値構造を資産化したり積み上げ、子孫に残したりしない。常に人生観は借り物で刹那的である。
グーはあくまでもこの世の世俗に通じている道理の強制力。暴力と言ってもいい。
アルタほどの教養を必要としない功利であるパーの稼ぎ、
そのカネを支配するエロの力チョキの魅力、性的な贔屓を意味する。なんとか上手もこれに含まれる。
インド🇮🇳
ダルマ(法)
アルタ(功利)
カーマ(愛)
翻訳🇯🇵
ダルマ(権力)グー 強制力暴力
アルタ(カネ)パー 稼ぎ 金銭力
カーマ(エロ)チョキ 性的魅力
グーチョキパーの変形
①グーが支配下のチョキを通じてパー=カネを制御する。俗に言うハニートラップ、風俗営業の強制
②チョキが支配するパーを通じてグー=実力行使を制御する。俗に言う権力の外堀、金主を絡めてショバを支配する女帝の院政、事務系裏権力利用の通則
③パーが支配するグーを通じてチョキ=エロを制御する。俗に言うけつ持ち示唆による関係支配、芸能反社癒着、ガーシーもこの類の周辺者
これらの変形に共通しているのはカネの絶対力=金銭ステージ(小銭から大金持ち)の違いである。①も最後は②に接続して別のグー・プレーを牽制するという目的がある。いずれも自分の大敵プレー屋{対抗勢}を牽制抑制すると自分の得意分野エロ、剛腕とカネの中のいずれか一つによってのし上がり局所的に天下が取れる。
インド哲学とは違い、日本人の世俗価値観はこのように刹那的に変形する小宇宙風土がある。ここが脇の甘い国家の緩みに深く関係している。歌舞伎などの例外を除いて、日本人は意識して小宇宙を次世代に敷衍しようとは考えていない。
日本人の精神性の優れたところは、論理に奥行きをもたせた属性二次元という感覚にある。なぜこれができるのかは簡単で日本語が英語のような構造語(主述補目的といった直線構造)ではなく膠着語(助詞がついて順序に関係無く役割が決まる)だからです。すなわち日本人の思考は組み換え可能で直線的ではない。空間的に知・情・意で結んだ三角平面を含む二次元上をうねって結論に進む。しかしながら西欧やインド哲学が推し進めた思考は、原因と結果という一次元に論理を落としこんで、他の属性を捨象し、知からいきなり意を導出し、意を深めて善を定立し、善死を導出する。
これに対して日本人は論理を突き詰めると、真・美・善は死に至ることを知っているから、直線的に考えない。何故ならば、外来論理の正統を崩さずにその奥行(日本化あるいは情緒化)をあとづけして日本人の情緒文明が外部文明を吸収しながら発展してきた歴史があるからだ。
命を大切にする精神性が日本人の本来の姿だ。これを妙と呼んだのは数学者岡潔である。同じく数学者の藤原正彦氏も「国家の品格」の中で、会津藩日新館の「ならぬものは、ならぬのです。」を引用して、論理でたたみ尽くすことは破綻をもたらすと述べている。教育の場面で論理的に人を殺してはいけない理由など学校指導で覚させた所で、一歩外に出れば、殺していい理由も羅列できる人間が世界に住んでいるのだから、日本人としては「ならぬものは、ならぬのです。」で十分なのだ。
あらゆる意味で論理の出発点は情緒を離れては、腹に落ちる結論はない。何故ならば情緒の個別性を論理的、過程的対象化が共感であるということに向かって普遍化する、すなわち日本人は虹色の心情のグラデーションを以って他者と結合しようとする。論理と出来事の順序だけでは決して腹の底で納得しない。詩歌もまず情緒であって、古典との接点を通じて共感に処理するのは個々の脳裏に任されている。「ならぬものは、ならぬのです。」という一見空疎な言明の真の意味合いはそういう言外のところにある。