この底本以前にH.G.フランクファートの唱えたdoctrine of sufficiency(充足性のドクトリン)はよりハイエク的「個人的自由」の概念の修正を提示している。つまり「同じ額の所得や金銭を持つことが、望ましいとするeconomic egalitarianism(経済的平等主義)」p15を批判し、「経済的平等それ自体は道徳的に重要な価値ではない」むしろ「万人が十分にそれを持つ」p16という充足が優先されると提唱する。
平等に企業の資産を分配したら、一社1億円にもならないだろう。資産の適切な偏在をファイナンスという形で修正するのが、本来の金融機関だが、その様な社会のための資産動員が他の手段も活用できる社会ならば、まだ成長できる。日本企業の研究開発投資は30兆円程度だから仕組みを直してでも偏在を循環に変えた方がいい。
そういう格差を前提とした非平等主義の意図には賛成だが、少し問題がある。格差は必要ダイナミズム、つまり社会の車輪を回す機会と資源の偏在としてのみ承認できると思う。企業にとって充足とは何かというと成長の確実な事業の数ということだから、見込めるものはなんでも買える市場社会が都合よく見える。ここにハイエクの落とし穴がある。市場社会は成長さえも奪ってしまう。大多数が転げ落ちるダイナミズムは誰も自由とは言わないだろう。
論述は資産の所有から始まっているが、働いて生きる糧を得るすなわち生活をする者にとって最初に障害となるのは資産ではなく、時間関数としてのコストの平等性である、これは充足の裏返しでもあるが、明確なことは万人が生きているだけではこの社会は維持できない。
Hillbilly elegy にも出てくるように、学位もコネも資産も定期的収入も持たない個人ばかりでは、社会に頭角を現すことなどできない。アルコールや薬物におぼれていたとしても、われわれの95%は努力をしなかった結果貧乏となったと蔑み見られるべき貧乏人ではない。
限られた充足、より不安のない水、電気、ガス、不安のない家屋、教育、仕事の継続、家庭の再生産、健康維持そして人生の終結を求めて働いているだけであって、人の上に立ちたいと思うから仕事をしているのではない。しかし入口のコストが高すぎては、自由を試すこともあきらめざる得ない。どんな経済活動もその基盤となる社会を疲弊させては意味がない。消費税を上げて法人税を軽くするなど愚かな経営者の政策提言。
もう少し読んでみよう。
「他人との比較によることなく、自分がどういう人間であり、何が重要なのかを見極めることの価値」表現が充足とされる。重要なのは前半「他人との比較によることなく」というsufficiency の定義の仕方だ。社会の参入入口(就職、新規参入、新技術新商品の紹介、営業機会など、さまざまにあるが)のコストを考えるとき、「他人との比較によること」は避けることができない。社会は固定しているのではなく、同じように見えるものも常に新陳代謝しているわけで、AというシステムがBというシステムに比べ参入しやすいか、しにくいかということは他人(システム、人、法規則、組織、政治が織りなす他者)との比較による。
簡単に言えば、東大に入るのと慶応に入るのとではどちらが競争が少なく「自分がどういう人間であり、何が重要なのかを見極める」自由を得られるかと万人が考えたときに、どちらでも同じという結論になるまで参入コストは低減しなければ充足はない。フランクファートの充足の定義は狭すぎると思われる。
また同様に任意の大学甲をもってきて、先の東大と慶応のいずれかと大学甲の参入コストに差があれば充足ドクトリンは破られている結論付けられる。したがって大学はどこの大学も入試をやめにして義務教育修了者はだれでも、どの大学を選んでも、あるいは複数の大学のミックスでも学べるようにしなければ、この自由は実現できない。
平等に企業の資産を分配したら、一社1億円にもならないだろう。資産の適切な偏在をファイナンスという形で修正するのが、本来の金融機関だが、その様な社会のための資産動員が他の手段も活用できる社会ならば、まだ成長できる。日本企業の研究開発投資は30兆円程度だから仕組みを直してでも偏在を循環に変えた方がいい。
そういう格差を前提とした非平等主義の意図には賛成だが、少し問題がある。格差は必要ダイナミズム、つまり社会の車輪を回す機会と資源の偏在としてのみ承認できると思う。企業にとって充足とは何かというと成長の確実な事業の数ということだから、見込めるものはなんでも買える市場社会が都合よく見える。ここにハイエクの落とし穴がある。市場社会は成長さえも奪ってしまう。大多数が転げ落ちるダイナミズムは誰も自由とは言わないだろう。
論述は資産の所有から始まっているが、働いて生きる糧を得るすなわち生活をする者にとって最初に障害となるのは資産ではなく、時間関数としてのコストの平等性である、これは充足の裏返しでもあるが、明確なことは万人が生きているだけではこの社会は維持できない。
Hillbilly elegy にも出てくるように、学位もコネも資産も定期的収入も持たない個人ばかりでは、社会に頭角を現すことなどできない。アルコールや薬物におぼれていたとしても、われわれの95%は努力をしなかった結果貧乏となったと蔑み見られるべき貧乏人ではない。
限られた充足、より不安のない水、電気、ガス、不安のない家屋、教育、仕事の継続、家庭の再生産、健康維持そして人生の終結を求めて働いているだけであって、人の上に立ちたいと思うから仕事をしているのではない。しかし入口のコストが高すぎては、自由を試すこともあきらめざる得ない。どんな経済活動もその基盤となる社会を疲弊させては意味がない。消費税を上げて法人税を軽くするなど愚かな経営者の政策提言。
もう少し読んでみよう。
「他人との比較によることなく、自分がどういう人間であり、何が重要なのかを見極めることの価値」表現が充足とされる。重要なのは前半「他人との比較によることなく」というsufficiency の定義の仕方だ。社会の参入入口(就職、新規参入、新技術新商品の紹介、営業機会など、さまざまにあるが)のコストを考えるとき、「他人との比較によること」は避けることができない。社会は固定しているのではなく、同じように見えるものも常に新陳代謝しているわけで、AというシステムがBというシステムに比べ参入しやすいか、しにくいかということは他人(システム、人、法規則、組織、政治が織りなす他者)との比較による。
簡単に言えば、東大に入るのと慶応に入るのとではどちらが競争が少なく「自分がどういう人間であり、何が重要なのかを見極める」自由を得られるかと万人が考えたときに、どちらでも同じという結論になるまで参入コストは低減しなければ充足はない。フランクファートの充足の定義は狭すぎると思われる。
また同様に任意の大学甲をもってきて、先の東大と慶応のいずれかと大学甲の参入コストに差があれば充足ドクトリンは破られている結論付けられる。したがって大学はどこの大学も入試をやめにして義務教育修了者はだれでも、どの大学を選んでも、あるいは複数の大学のミックスでも学べるようにしなければ、この自由は実現できない。