「前田正名が正規の官僚になったのは明治12年、1879年処女献策、「直接貿易一班」を大隈重信に提出していた。さすがにこの時杉山茂丸は15歳、ご縁はないだろう。茂丸がJPモルガンから1億弗の資金を約束させたのが明治31年、1898年これが幻の興業銀行プランとなる。前田の興業意見緒言(抄録)頒布は明治17年、1884年だから時代が違う。この時前田は県是郡是を携えて全国行脚と「町村是調査標準」作成と宮崎新田開発と釧路製紙工場立ち上げに努力している。」
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ADBはアジア・太平洋地域を対象とする国際開発金融機関として、1966年に設立されました。ADBは世界最大の貧困人口を抱える同地域の貧困削減を図り、平等な経済成長を実現することを最重要課題として、この困難な問題に取り組んでおり、日本は設立以来、最大の出資国として貢献しています。設立当時から日本の大蔵省(現・財務省)が深く関わっていた。アジア開発銀行は大蔵省OBで初代総裁も務めた渡辺武が作成した私案をもとに、大蔵省OBで大蔵大臣だった福田赳夫、その盟友であり、当時の金融界のフィクサーであった常盤橋経済研究所の大橋薫が設立に関与し、大蔵省の意向を強く反映して設立が進められた。補筆福田赳夫は自分の秘書官であった小和田恆となら、娘の優美子を結婚させてもよいと思った。そうだ。
江頭優美子さんは江頭家に託した福田赳夫の隠し子(性交時期は226事件で1936年上司高橋是清が横死して大蔵省は22億の予算を30億円で軍に飲まされた主計局休業挫折の翌年1937年、まだ32歳若い福田の心境を思えば3年ほど前の京都時代の愛人に何か想いの連綿があっても不思議ではない。1940年9月まで公的記録空白期となっている)だったと噂される。その縁の政治力でチッソ水俣の奇病は隠し続けられたと逆に真正思料する。
そしてその優美子も食わせ者だった。
興業銀行という概念は現在のアジア開発銀行ADBに引き継がれている。格付けが常にAAAの優良銀行であるが、母体の日本政府起債がA+というのはどういう捻れだろう。母屋でお粥、離れですき焼きと言ったのは塩爺こと塩川正十郎。ADBは役人の天下り天国の嚆矢。
ペーパーレス化によって紙の需要の減少が続くなか、昨年度の国内出荷量が初めて1000万トンを下回り、2007年度のピークからおよそ半分にまで落ち込みました。製紙業界にとどまらず、オフィス向け機器を手がける業界でも事業再編や業界再編の動きがさらに加速することが予想されます。
業界団体の日本製紙連合会によりますと、ティッシュや印刷用紙、それに新聞などに使われる洋紙の昨年度の国内出荷量は948万トンで、前の年度から9%減少しました。
今の統計で比較が可能な1988年度以降で初めて1000万トンを下回り、2007年度のピークと比べると48%の減少と、およそ半分にまで落ち込んでいます。
背景にあるのは、ペーパーレス化やデジタル化の拡大で、製紙業界では、大王製紙と北越コーポレーションが原材料の調達や生産面での技術協力などで提携する検討を進めています。
オフィス向けの複合機などを手がける業界でも、富士フイルムホールディングスとコニカミノルタが原材料などの調達で合弁会社を設立する協議を始めているほか、リコーと東芝テックも複合機などの開発と生産の部門をことし統合する計画で、事業再編や業界再編の動きがさらに加速することが予想されます。