「お役所仕事の大東亜戦争」 倉山 満 2015年7月31日 初版第一刷 三才ブックス
倉山満
1973年生まれ。1999年から2014年まで「日本国憲法」の教鞭をとる。
久しぶりに新刊の書評である。
早速
この本に注文をつけるなら、歴史の理解はもう少し遠目で、複眼で理解したほうがいい。役人の拒否権を理解することが権力の掌握に重要な進路情報を与えるという観点が面白くもあり、狭苦しくもある。それがオリジナリティーだからそこは否定しない。
感想
戦争の原因はお役所仕事ではないが、お役所化した軍人たち故に馬鹿な選択を続けたと、将来から批判されそうな局面はあっただろう。
他方、
自虐史観などと呼ばれる戦後歴史教育に見られる軍部の暴走、民主主義の機能停止など最後の局面まで暴走するほどの統率が存在しなかったことがわかる。
軍部大臣現役武官制を山縣が主導しても実際に軍部という組織が生まれた訳ではない。プレーヤーとマネージャーはいつも対立していた。せめて米国のように軍部官僚による一体的統制が効いていれば、溥儀のいいなりに熱河の川を越えることはなかったろう。
他国と比べ日本軍は、むしろ内部牽制が効きすぎてリーダー同士の風通しが悪い。縦割りでリーダーを担ぐことはできても、任せることができない組織だから、課長レベルの参謀石原莞爾が満州秘密作戦を作ってしまう。
同情する
軍組織さえも不安定で人事が国政政争の主戦場になってしまうほど不安定な役所仕事の典型だったことが詳細に再現されているところにこの著作の価値がある。
憤る
『通州の日本軍守備隊は、主力が南苑攻撃に向かっていて少数しか残っておらず、装備も劣っていたために死傷者が続出し、通州特務機関は全滅したという。
冀東政府保安隊は日本軍を全滅させると、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、略奪・暴行・強姦などを行なった。
中村粲(あきら)氏の『大東亜戦争への道』のp.404-406に東京裁判で行われた証言内容が掲載されている。(原文は旧字旧カナ)
「旭軒(飲食店)では四十から十七~八歳までの女七、八名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中四、五名は陰部を銃剣で突刺されていた。商館や役所に残された日本人男子の屍体は殆どすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。」
(萱島高・天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第二連隊長(当時)の東京裁判における証言)
「守備隊の東門を出ると、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極に達した。『日本人は居ないか』と連呼しながら各戸毎に調査してゆくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等がそこそこの埃箱の中や壕の中などから続々這ひ出してきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は十四、五歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。旭軒では七、八名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者等、見るに耐へなかつた。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに八番鉄線を貫き通し、一家六名数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」
(桜井文雄・支那駐屯歩兵第二連隊小隊長(当時)の東京裁判における証言)』
これらはコミンテルンの指示により劉少奇が行った。
劉少奇、第2代中華人民共和国主席(国家主席)などを務め、中国共産党での序列は毛沢東党主席に次ぐ第2位であったが、文化大革命の中で失脚、非業の死を遂げた。
1959年に毛沢東に代わって国家主席に就任する。毛沢東は中国共産党中央委員会主席と中央軍事委員会主席にはとどまり、党内序列も毛が1位、劉が2位であったが、国政の最高責任者についたことで形式的には毛を越える地位となった。この年には廬山会議において国防部長の彭徳懐が大躍進政策を批判する上申書を提出、毛がこれを反革命と非難して彭は解任されたが、劉はこの解任決議に同意している。しかし、その後に故郷を視察した際、その疲弊ぶりに衝撃を受けた。
1962年の七千人大会(党中央の拡大工作会議)において、劉少奇は「今回の大災害(中華人民共和国大飢饉)は天災が三分、人災が七分であった」と党中央の責任を自ら認めた。この大会では出席者からの批判に毛沢東も「社会主義の経験が不足していた」と自己批判を余儀なくされ、これ以降政務の一線を退いた。
劉はこのあと、党総書記の鄧小平とともに市場主義を取り入れた経済調整政策を実施し、大躍進政策で疲弊した経済の回復に努めた。こうした政策を毛沢東が「矯正しすぎて右翼日和見の誤りを犯している」という理由から「何を焦っているのか。足下が崩れかかっておるんだぞ。どうして支えようとしないのかね。わたしが死んだらどうするつもりだ!」と批判したのに対して、劉が「飢えた人間同士がお互いに食らい合っているんです。歴史に記録されますぞ」と答えたエピソードを夫人の王光美が記している[2] 。すでに党中央に強い基盤を持っていた劉は、それゆえに毛沢東にとって厄介な存在であった。
この時期、国際的にはソビエト連邦との間で路線の対立が決定的となった。インドネシアなど周辺の非同盟諸国との結束を固めるため、劉は何度かこれらの国々を訪問している。
ここからはおまけ
歴史を顧みても軍人は戦争をしたがらない。なぜでしょう。戦争をしない状態で潜在能力を敵に理解させるのが最も効果的抑止戦術だからです。一度も交戦する姿を見せたことのない軍隊はなめられてしまいますから、演習をしてみせるのです。非軍人は戦争がドンパチだと思っているから、戦争のない状態も戦争であることが理解できません。其れが政党政治を混乱の中に陥れます。とにかくハト派は米英の機嫌を損ねないように関東軍の動きを抑制していた内閣には、表向きが大切で、常時が戦時(既に日本が米英の仮想敵国)であるという共通理解を前提に関東軍を統制できなかった。哀しいことに非軍人の理解できることは人事と予算だけだった。たとえ突出した軍事が抑えられていたとしても、結果を出さない政治は押され倒されたに違いない。邦人保護のアイディアに軍事以外の選択があったのならば、試していただろう。それは今も同じ。恥辱を忍んで通州事件などを国際社会に発信していれば、外交的バランスを変えられたのかもしれない。軍内部の横連携が無い当時の日本に外務省との連携は望むべくも無い。こういう発信は唯一天皇が諸外国の王族に対して行いうる立場だったろう。
戦後のように何もかも省庁根回しと予算確保の財務省交渉に明け暮れている異常な状況から戦前を見ると、政党間の争いが国是でも国際基準の民主主義でもない、ただの人事権争いであったことが全ての非選出高官で起こっていた。戦争責任は被害者論では解を導くことができない、やはりやるべきことをやらなかった故意または無知の馬鹿の責任は重いのです。
倉山満氏は、あくまでも仮説と言っているが、「近衛が日本を滅ぼすためにわざと仕組んだと考えましょう。」と陰謀論が嫌いな倉山氏にしては踏み込んでいる。私は近衛文麿がアングロアメリカ側の傀儡、風見章がコミンテルンのエージェントと見ている。本当の彼らの指令背後は実体的に共通している、これが20世紀世界史の常識。
主なメンバー
蝋山政道
佐々弘雄
風見章
三木清
矢部貞治
尾崎秀実(尾崎秀実はゾルゲ事件で死刑に、審問を受けた田中慎次郎の証拠が採用されるが、田中はおもしろいことに戦後すぐに朝日新聞に採用され、主幹となる。昭和23年(一九四八年)十一月には調査研究室長になって原子力を推進する。更に昭和34年「朝日ジャーナル」を創刊する。昭和23年の暮といえば、戦後の闇を知る人ならばなにかを思い出すだろう。クリスマスイブの一斉釈放の前の月のことだ。心の底から反日の工作員というのはこういう人物を云う。戦前はソ連に戦後はアメリカに売国して地位を得ている。)
あるいはこの事件で廃嫡となった西園寺公一という中共の戦争工作エージェントを忘れてはいけない。売国奴は何度も売国し、何度も言い訳をする。
『ささやかではあるが、わたしや、法制局長官たる滝正雄氏の存在も、政党方面の反感をかう原因の一つであったようだ。当時、滝氏もわたしも、衆議院に議席をもってはいたが、ともに無所属であった。ことに、わたしは、前々から政界革新をとなえ、既成政党をさかんにこきおろしていたことではあるし、そのわたしが書記官長の地位にあるということは、政党方面からみればいい気持ではなかったろう。(P33-P34)』風見章 日記より
倉山氏はもっとも亡国に貢献した役人としては馬場一《えいいち》を挙げている。あまり有名ではないが、同期の顔ぶれが面白い。
wikiでは
「東大法科大政治科を卒業。卒業順位は、1位が後に東京市助役となった小野義一、2位が後に商工大臣や鉄道大臣などを歴任した小川郷太郎、3位が後に憲法学者として天皇機関説を猛烈に批判した上杉慎吉で、馬場は4位だったが、続く高等文官試験では首席で合格、大蔵省に入省した。」
「1936年(昭和11年)に広田内閣が発足すると馬場は満を持して蔵相として入閣。前任者の高橋是清蔵相が掲げていた公債漸減主義を放棄し、国防の充実と地方振興のため増税と公債増発を行うという財政声明を出した。またその政策遂行のために省内の人事刷新にも着手、長沼弘毅を蔵相秘書官にして新たな人事を練らせた。まず津島寿一次官を退任させ、軍部と強硬に渡り合ってきた賀屋興宣主計局長を理財局長に異動させたほか、石渡荘太郎主税局長を内閣調査局調査官へ、青木一男理財局長を対満事務局次長へと、それぞれ省外へ放出した」
「馬場は軍部の強い後押しにより内務大臣として入閣した。軍部はもとより、近衛も当初は馬場を蔵相に再起用することを考えていたが、財界には馬場財政への不信が根強く、結局近衛は馬場を副総理格で内相に副えることになった。馬場はそれからわずか半年後に病気を理由に辞任すると、1週間後の12月21日に心筋梗塞を起こして急死した。満58歳。」
馬場がこんなふうに無能な役人と書かれてしまうのは可愛そうだ。彼を出世を餌に操ったアングロアメリカの手先=近衛の秘密計画の汚れ役が馬場一であり、彼は其の秘密を守るため捨て駒(謀殺)にされたと見るべきだろう。
憲法学者(憲政史家?)の倉山氏の著作として残念賞なのは、二・二六事件と天皇機関説に関して、カウンタークーデターによる国家移譲(外患誘致)の法体系上の本質を見抜いていないことだ。誰が見ても統一性のない戦争戦略と総動員体制を馬場一が準備する訳だが、本質がわかっていれば馬場が上杉慎吉と同期である関係の利用は偶然ではないと気づく。馬場一の財政的準備は天皇機関説攻撃と一体のプランであることに気付けないのは、研究対象に近づき過ぎているからでしょう。歴史は遠くから見るべきです。
倉山氏には頭の悪い(そうは書いていない)官僚の自己保身とお役所仕事が外交プランを縦割りで米英蘭ソ中すべてを敵に回す総花戦争が権限の拡張競争の末、国富の底を突き抜ける総力戦という絵図(取ってつけたような共栄圏)にしたという点がよく見えているようだが、戦争の裏側で進行していた本当の戦後戦略は一人昭和天皇の胸のうちにあった。昭和の謎であるなぜ二・二六事件で高橋是清と軍部の秀才学者渡辺錠太郎がターゲットになったのか?前者は日露戦争の借款遅延に対する国際銀行家の報復。後者はその担保として天皇家の財産を召し上げる(国家財産の移譲)法理念変更という象徴的メッセージである。
9月6日の御前会議で帝国国策遂行要領を決定し、「外交手段を尽くすが、10月下旬までに対米戦争の準備を完了し、10月上旬においても交渉の目途が立たなければただちに開戦を決意する」とした。
10月17日 近衛文麿内閣総理大臣を辞任
10月18日 東條英機内閣成立、陸軍大臣兼務
10月19日 永野修身軍令部(大本営海軍)総長、真珠湾攻撃了承
10月23日 陸軍海軍項目別再検討会議
10月26日 東京日日新聞社説、日米開戦強硬論報道
10月31日 参謀本部(大本営陸軍)会議
11月01日 大本営政府連絡会議、日米開戦を事実上決定
11月03日 グルー駐日大使『日本人全国民ハラキリ』伝える
11月05日 御前会議、帝国国策遂行要領を決定
11月07日 アメリカ政府定例会議・日本政府甲案提示
11月09日 ウォーカー・野村会談、ウォーカーは日本の武力進出を知ると告白
11月14日 野村大使、東郷へアメリカは日本への譲歩より戦争の決意を報告
11月15日 来栖三郎大使赴任・臨時国会で島田俊雄議員、日米開戦を督促演説
11月18日 野村駐米大使、単独で南部仏印撤兵、アメリカの資産凍結解除を提案
11月20日 野村大使ハルへ日本政府乙案提示(ハルは暗号解読で既知)
11月21日 東郷、野村へ交渉妥結へ努力するべく切迫した状況を訓令
11月22日 東郷外相、野村へ29日までの妥結期日を伝達
11月22日 ハル『日米協定暫定案』英・中国・豪州へ伝達
11月26日 午前6時連合艦隊択捉島出港・ハルノート手交(日本時間27日午前7時)
11月27日 大本営政府連絡会議、ハル・ノートを最後通牒と確認
11月28日 東郷茂徳外務大臣上奏
11月29日 重臣会議、英米開戦に同意
12月01日 御前会議、米・英・蘭との開戦を決定
12月06日 東郷茂徳外務大臣、対米最終覚書を野村大使に発電
12月07日 ドイツ、モスクワ総攻撃失敗、東部戦線休止
12月08日 日本軍、アメリカ・ハワイ真珠湾攻撃
三日で国運を決めている。信じられない。
おまけがながすぎる
このカウンタークーデターが国外で計画されたこと、国際金融資本の長期計画の一部であったという真の目的が隠されていることが倉山氏にはまだ見えていない。行き詰まった米国の経済成長を立て直すために生産力が過剰になった産業投資の需要先を海軍と空軍を中心に創りだす動機、大きなビジネス(被益者としての天皇家皇統の維持、亜細亜麻薬市場のサスーン財閥からの略取)の下ごしらえ、これらを総合して複数のプランが合成計画されたものが対日戦争だ。だから本質が見えにくい。ましてやロシア革命の熱狂が去った21世紀には共産主義の大統領がいたことなどジョークにしか聞こえない。
大きな戦争ビジネス計画の歯車にすぎないということ世間に知られることを恐れた近衛は自殺を選んだ。このように見るならば、ブレーキ役の「賀屋興宣(かや おきのり、1889年(明治22年)1月30日 - 1977年(昭和52年)4月28日)主計局長を理財局長に異動させたほか、石渡荘太郎(いしわた そうたろう、明治24年(1891年)10月9日- 昭和25年(1950年)11月4日)主税局長を内閣調査局調査官へ、青木一男理財局長を対満事務局次長へと、それぞれ省外へ放出した」”頭の悪さ”、が見せかけであることが合理的に理解できる。
ちなみに倉山の云う「頭が痛い」は、頭が悪いと同義。バカバカしい押し問答がバカバカしい役人仕事の結論=予算確保へと結びつくのは、各省庁に戦争で肥えようとする動機があったからだということだろう。馬鹿だから戦争をしたのではない。米国による国民国家破壊と知っていながら乗ったTPPと変わらない。今も同じ。
着想が面白いので"賢人の知恵"という役所仕事の拒否権行使言葉を列挙しておくと。。
K聞いてない
K急に言われても
J順序が違う
K傷ついた
K決めたことなので
S誠意を見せろ
Sそんなこともわからなのか
こんなことを言われて馬鹿扱いされる政治家や軍人も気の毒だが、馬鹿を直さなくては日本は良くならない。会社でも同じことが改革の声が上がるたびに4kj2sが上がる。
こうした拒否の姿勢自己保身を打ち砕くには、あらかじめ言わせないルールを権威が権力行使を示唆して形作るしかない。なんとなく組織が動いているようではこの言葉で時間を稼がれたり仕切り直したり、白紙になったりする。
大切なことは人事権である。リーダーは人事権だけは委譲してはならない。
ベンチャーは毎日が変化、この言動の全てを否定して実行せねばスピードがでない。
K聞いてない ← 禁句。いま聞け。
K急に言われても← 急に言われれば其れがチャンスと思え。
J順序が違う ← 手順の違和感もまたイノベーションのチャンスと思え。
K傷ついた ← 普通人がへそを曲げるほど新しいことにぶつかってゆくこと
K決めたことなので← 決めたことの前提を疑い、全てひっくり返すのがイノベーションと思え。
S誠意を見せろ ← 誠意を演じている時間はないので売上と結果でお返しします。
Sそんなこともわからなのか ← どうか教えて下さい。わかっていても知らないふり。
ににんが五の道化を演じて、ににんが四点五を飲み込ませよ。
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本文と写真は関係ありません。
追記
卑屈なメディアについては、『正論2015年10月号の有馬教授の論文「原爆投下を正当化するのか NHK歴史番組の病理2」で紹介されていますので、ご参照ください。』
連日デモをなさる方がいう事には、J改憲が先、K審議が足りない聞こえない、K決めた憲法を変えるな、K戦争に行って傷つくのは若者だ、S戦争放棄、違法なこともわからないのか、S誠意が無い安倍内閣は退陣。ごもっともなご意見だが、愛国心が感じられない。