六字名号一遍法、十界依正一遍体、万行離念一遍証、人中上々妙好華
元寇と災害不安の時代、念仏する命さえない人々の前に現れた最後の鎌倉新教仏教は一遍上人 宗教を記号化した先駆者と言えよう。
『柳宗悦氏は前掲書のなかで法然、親鸞、一遍の立場を次のように要約している。法然においては、仏を念ぜよ、さらば仏は必ず人を念じ給う、であり、親鸞においては、たとえ人が仏を念ぜずとも、仏は人を念じ給う、である。ところで一遍においては、仏も人もなく、念仏みずからの念仏である。「されば念々の称名は念仏が念仏を申すなり」(『播州法語集』)である。また「名号が名号を聞く」とも一遍はいっている。念仏が念仏する姿の当体が即ち一遍であった。一向専念の念仏の行者であった。』無用者の系譜 唐木順三
元寇と災害不安の時代、念仏する命さえない人々の前に現れた最後の鎌倉新教仏教は一遍上人 宗教を記号化した先駆者と言えよう。
『柳宗悦氏は前掲書のなかで法然、親鸞、一遍の立場を次のように要約している。法然においては、仏を念ぜよ、さらば仏は必ず人を念じ給う、であり、親鸞においては、たとえ人が仏を念ぜずとも、仏は人を念じ給う、である。ところで一遍においては、仏も人もなく、念仏みずからの念仏である。「されば念々の称名は念仏が念仏を申すなり」(『播州法語集』)である。また「名号が名号を聞く」とも一遍はいっている。念仏が念仏する姿の当体が即ち一遍であった。一向専念の念仏の行者であった。』無用者の系譜 唐木順三
「日本には昔から今にいたるまでなぜかくも無用者が多いのか、質において高い者が、なぜ意識して無用者となったのか、日本の高級な思想や文学がなぜ世の無用者によってかたちづくられてきたのか。」この一貫した主題の下に、業平、一遍、芭蕉、良寛、秋成等から荷風に至る、いわゆる無用者となることを選びとった人々の生きざまに独自の視線を当て、日本文化の根底をさぐった異色の評論。
法然、親鸞、一遍と念仏は主格対立から超越論へ続いている。この精神史が面白い。