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菜根譚より
「 交友須帯三分侠気 作人要存一点素心 」
純真な心を以って人となり、友を持って侠気を備える。何かに一肌脱ごうと思う前に、人であり、心である。だから日頃から自分のこころと向き合って一点素心を貫くことが必要であるとの教え。
素心というものは目にすることができない。理を以ってこれに迫れば、蜃気楼のように心は逃げ、理を諮る理が無限に現れてくる。情を以って迫れば、心のなかにまた心が包まれ、心のありかは情動変化によって悟り取ることができるが、変化動因が何者であるか得体が知れない。
素心とはなにか?それは、古来に言う「もののあわれ」の発生源である。だから。。
素心を見つめるには、情動の変化と限界に注意を向けること、限界つまり「もののあわれ」を通じて本質を理解する、言葉を用いても言葉にたよらない心得が必要である。
あるいは理の断絶と限界に注意を向けることが肝心。理の限界が妙であり、情の限界が美である。妙や美は素心を映す鏡のようなものであり、妙美は理の断絶と情の臨界を通じて己の幻想性自覚を促す電撃である。
竹林に籠り、思うということの奥底の論に行き詰まるか、闇にさまよって己の自由にならない情動の陰影に恐れおののくか、性愛情欲に耽けり理性の軌道を失うかには、上下貴卑がない。
いずれも自分と信じているものがそもそも幻影である。これは死と同じく必ず出会う人生の関門、これこそが素心自覚のための試練煉獄。
生きている限り、理も情も己も幻影であり、死という鏡に写すならば山より高い理も、海より深い情も無色透明の影のようなものである。死の鏡に映る道理と情動の影の本体が素心であり、死を賭さなければ見えないのが素心。
凡人には死を賭すことができぬゆえに、人間は古来幾重にも重なる山脈のように理屈をこね、海溝のように深い欲望を永劫持ち続ける。すべては実のある意が無い。
生きながら死ぬという絶対矛盾の理が命の底に達することができるとき、理と情と己(意:分別智という己)は区別がなくなる。
こうした命の底、生まれた時の理と情が分裂する前の純粋な心内容が素心であり、人間が人間にあらざる宇宙を宿らせている証拠となる。それは禽獣でない限り誰にも必ず一つ備わっている。無限を無条件に与えられている。これを神という人もいるが、ここでは使わない言葉だ。しかし素心はは生きている間に決して指し示すことのできない無規定な非心象である。
岡潔が述べているように日本人には知情意という物事の上にバランスを考える伝統的と知恵がある。これを岡潔は妙と言っている。知情意は真美善がそれぞれの極点に対応し有限な個人の限界がそれぞれの極点にある。極限の先が死の世界なのである。そこが妙の知恵であって、知や情や意志の力で一元的にすべてを統一しない。これを妙として措いておく。知と情の極限に陥らないように仮の答えを妙として措いておくのである。