ポーラの移動展 モジリアニはなかった。
大義名分(朱子学)のため1800人も犠牲を出した水戸藩士の中でイギリスに密航した者はいない。有名な長州ファイブ井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔、野村弥吉の他、薩摩だけでも19名、最終的に25名がイギリスに密航している実績と対照的である。
山尾は現地で薩摩に金を都合してもらっている。幕臣さえ14名出している。
他方水戸藩では知る範囲では市川弘美(いちかわ ひろとみ、別名市川三左衛門)ぐらいが追い詰められて、フランス密航を計画したが、直前捕縛され逆さ磔で辞世の句を詠む。ここに明治維新の外骨格(オールコックとロッシュを代表とする英仏外交対立)が見えてくる。内骨格であったはずの尊皇攘夷と明治維新は実は歴史とは無縁であった。
君ゆえに はすつる命はおしまねど 忠が不忠に なるぞ悲しき
1868年、幕府が江戸城を明け渡して徳川慶喜も水戸に謹慎することになると、京都における本圀寺勢(天狗党派)が朝廷より「除奸反正」(市川三左衛門らを討伐し,藩政を正常化せよの意)の勅書を賜る。情勢の不利を察した市川は、4月、諸生党約500名を率いて水戸を脱出し、戊辰戦争においては奥羽・越後各地を転戦して官軍と戦う。しかし、9月に会津が落城すると行き場を失って再度水戸へ戻り、藩校弘道館に拠って水戸城に拠る本圀寺勢と戦闘に及んだ(弘道館戦争)。しかし、市川自身も二人の子息を失うなど多数の死傷者をだして下総方面へ敗走し、銚子や匝瑳にて追討される(松山戦争)。これによって諸生党残党は壊滅したが、市川は脱して江戸に潜伏した。
市川は江戸市中の寺院や旧友宅に潜伏したが、1869年2月に藩の捕吏に縛されて水戸へ移送された。4月、水戸郊外の長岡原で逆さ磔の極刑に処された。墓所は水戸市の祇園寺。なお同寺には諸生党士の慰霊碑(恩光無辺の碑)がある。
以下参考まで
肥後藩士石丸安世・佐賀藩士馬渡八郎・広島藩士野村文夫 共通点はグラバーの貿易船で密航した共通点を持っている。石丸と馬渡は1866‐67年グラスゴー大学の留学学籍簿に載っている。他方野村は何をしていたか不明なため特別に興味深い。西南戦争の年1877年初、依願退職した。東京都千代田区神田司町に『團團社』創業(創刊の1877年に年間約15万部は大ヒット宮武外骨に活躍の場を提供)の風刺戯画で藩閥政府を皮肉って人気を呼び、自由民権運動の機運をあおった。これは第一革命明治維新期の倒幕に続くズバリ天皇処刑あるいは退位を目的とした第二革命が西南戦争であることを物語る。(明治天皇を処刑する大義名分を西郷は握っていたのか?あるいは孝明天皇の死に関わる謎を知ったか?)
肥後藩士石丸安世・佐賀藩士馬渡八郎・広島藩士野村文夫 共通点はグラバーの貿易船で密航した共通点を持っている。石丸と馬渡は1866‐67年グラスゴー大学の留学学籍簿に載っている。他方野村は何をしていたか不明なため特別に興味深い。西南戦争の年1877年初、依願退職した。東京都千代田区神田司町に『團團社』創業(創刊の1877年に年間約15万部は大ヒット宮武外骨に活躍の場を提供)の風刺戯画で藩閥政府を皮肉って人気を呼び、自由民権運動の機運をあおった。これは第一革命明治維新期の倒幕に続くズバリ天皇処刑あるいは退位を目的とした第二革命が西南戦争であることを物語る。(明治天皇を処刑する大義名分を西郷は握っていたのか?あるいは孝明天皇の死に関わる謎を知ったか?)