公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

ちょっと変わり者の偉人「よし偉いもんになったるぞ」井上貞治郎 著

2015-12-13 18:07:50 | 日本人

井上貞治郎は人生の最後に家庭が砦と書いている。忘れるべからず。若い頃は野心を抑えきれず、南方の奴隷漁師に売られそうになった 井上貞治郎。この人の段ボールのおかげで今日も出荷ができる。


「『紙にしようか、メリケン粉にするか』。私はまだ迷っていた。明治四十二年、二十九歳のときである。朝鮮から満州、香港と流れ歩いた末、やっと見つけた東京での二畳の部屋。そこへ大の字にひっくり返って、天井の雨漏りのしみをながめながら考えたのはこれからのことだった。紙というのは後に私が名づけ親となった段ボール──いまではテレビなどの電機製品の紙ばこ材料になっている、あれである。あるいはメリケン粉を練ってパン屋でも始めるか……私には思案にあまることだった。そんなとき、ふと耳にしたのは練塀町の稲荷おろしのことである。考えあぐねた私は早速そこへ飛び込んだ。 巫女は白髪の老婆だった。御幣をあげさげしているうちに、体が踊り出す、目がつり上がる。巫女はうわずった声でいった。『ほかはいかん、いかん。紙じゃ、紙の仕事は立板に水じゃ……』。よし、これで決まった。私は五十銭払って、二畳のねぐらへ道を急いだ。」
初出:「日本経済新聞」日本経済新聞社   1959(昭和34)年6月28日~7月17日

ねぐらとは満州から流れ流れて間一髪奴隷船を逃れ、女衒を脅して横浜に上陸してから。年後の東京の事である。
「まじめに働こう。これまでのような放浪生活とはきっぱり縁を切って地道に暮そう。いまから思えば大陸生活で私が得た、たった一つのものはこの決心だったかもしれない。そして私は「金なくして人生なし」という私なりの哲学を持つようになった。」
井上貞次郎30歳の決意である。波乱の人生は、映画やテレビドラマになったというが、私は全く記憶していない。
「業平橋の下総屋という木賃に泊まって、大張切りで中屋に通った。そして片手間に横町のシンガーミシンの外交も引受けた。」
「当時日本で作られていたのは、もとはブリキに段をつけるロールにボール紙を通したもので、正式な名はなく一般に「電球包み紙」といわれていた。しかしこれは一枚の紙を山型のジグザグに縮ませただけで、ほとんど弾力性はなく、押えればぺしゃんこになってしまう。しかし馬喰町のレート化粧品などで使っていたドイツ製品は、波型紙をさらにもう一枚の紙にのりづけしてあり、しかも波の型が三角形でなく半円形で、弾力に富むものだった。当時は俗に「なまこ紙」といっていたが、私たちはこの国産品を作ろうと思い立ったわけであった。」

「段ボール」という名称を発明した井上貞次郎の始まりはなんとも「詐欺的」起業である。アレできるだろうという程度の着想、ゆるい時代ではあっても出資者には迷惑をかけたようだ。それよりも難しいのはその後の市場開拓だったと思う。同じ時代の出光でさえ需要のあるものでも困難だったのに、ダンボール紙など誰も必要としていない。だが香水瓶という特殊な需要にうまく食い込んだ。明治42年の事である。
社史によると、
「朝早くから注文取りや得意先への納品に走り回り、夜は遅くまで糊と汗にまみれて作業を行うなど奮闘努力を続けた結果、「段ボール」への注文は次第に増えていきました。やがて従来の手回し機では間に合わなくなり、井上は思い切って3千円もするドイツ製のモーター付き巻取り段ボール機を輸入しました。(写真3)品質は向上し、大手メーカーの評価も高まり、東京電気(現:株式会社東芝)のマツダランプ、ノリタケの輸出用陶磁器にも使われるようになりました。
「段ボール」を作り始めて5年後、香水瓶半ダース入りの箱の注文が入り、井上は初めて「段ボール箱」を手づくりで製作しました。井上は「段ボール箱」の量産体制を築くため、ドイツ製の製箱機一式を購入しました。翌年には、大阪に子会社を2社設け、名古屋には分工場を置き、東京の本社・工場は、工場地帯になりつつあった本所区の太平町(現JR錦糸町駅前)へ移転し、東京電気の川崎工場の近くに三成社の川崎工場を建設しました。こうして「段ボール」事業は快調に運ぶようになりました。」
とある。

「銀座の島田洋紙店主に金を借りたりして、当時の金で三千円の巻取り段ボール機械をドイツから輸入した。もっとも初めはうまく運転できなかったが、苦心の結果なんとか完全にこれを扱えるようになった。こうなるとますます大量生産の成果もあがってくる。事業も順調にはかどり、島田洋紙店への借金は、間もなく利息もつけてすっぱり返すことができた。 そのころ本町のリーガル商会からベジリン香水半ダース入りの、段ボールによる包装用紙ばこの注文を受けた。私は国産で初めての両面段ボールを使って、見よう見まねの製作にかかり、これを仕上げたが、これが日本でのいわゆるパッキング・ケースの最初のものとなった。 店員も十数人にふえ、私は『月に一千円以上の品物が売れるようになれば、お前たちにうなどんをおごろう』といってみんなを励ましたものである。」

大正2年の事である。このあとはち切れんばかりの景気になる。5~6年間の苦労とは羨ましいくらい上出来事です。
「それ以後の私の事業は、まずまず軌道に乗ったといえる。もっとも現在までの四十年間には、関東大震災、日本製紙の合併、第二次大戦後の混乱とまだまだ多くの苦難が私を待ちうけていたが、三十歳までに味わったつらさを思えば、むしろ軽いものだった。この四十年間はあまりくわしくやると、多少自慢話めくので、かいつまんでさっと走ることにしよう。」
大正9年に聯合紙器株式会社を創立となる。「三十歳までに味わったつらさ」はとんでもなく強烈だった。文字になって残っている事が大変に貴重だ。いまや28年3月期6,400億円予想の会社レンゴーである。

2015年11月30日
『大阪製紙株式会社の洋紙事業撤退に関するお知らせ』

『レンゴー株式会社(本社:大阪市北区、会長兼社長:大坪 清)の連結子会社である大阪製紙株式会社(本社:大阪市西淀川区、社長:吉野 彰芳)は、2016年3月末をもって、洋紙事業より撤退することを決定いたしましたのでお知らせします。

事業撤退の理由

大阪製紙株式会社は1947年に洋紙事業をスタートし、新聞用紙の販売を中心にわが国の高度経済成長や情報産業の高度化に貢献してまいりました。しかしながら、昨今の新聞発行部数減少等の事業環境の変化により、今後、洋紙事業を継続、成長させることは困難であると判断し、同社のもう一方の主要事業である白板紙事業に経営資源を集中させることといたしました。』
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