水産関係者として絶対読んでおくべき本(1994年 平成6年初版)。パイオニアの早すぎた挑戦と挫折がある。マッコウクジラを日本で初めて漁獲する場面は圧巻である。
関沢明清(通称:孝三郎)
関沢 明清(せきざわ あけきよ、天保14年2月17日(1843年3月17日) - 1897年(明治30年)1月9日)は明治時代の水産官僚。旧加賀藩士。ウィーン万国博覧会で水産業の重要性に触れ、アメリカ合衆国で魚の養殖、缶詰製造を学び、日本で初めて鱒の人工孵化を成功させ、農商務省技師としてアメリカ式巾着網による鰯漁、捕鯨砲によるアメリカ式近代捕鯨を試みた。駒場農学校長、初代水産伝習所長、東京農林学校教授。短い期間ではあったが農商務省時代、渡米前の内村鑑三の上司であった。
駒場農学校とは東京農林学校を経て東大農学部となる学校の前身であり、場所は弥生町と敷地交換する前の現在の駒場キャンパス。土壌学の鈴木重禮、分析学で理化学研究所を設立する鈴木梅太郎とその弟子の後藤格次、化学の田村三郎、高橋克己、坂口謹一郎、東京帝国大学総長にもなる古在由直、古在と足尾銅山鉱毒の研究を行う長岡宗好、林学の本多静六、本郷高徳、高橋延清、議員となる岡田温、諸橋襄、有馬頼寧、徳川宗敬、知事になる横川信夫、農業史の古島敏雄、稲研究の加藤茂苞、近藤萬太郎、造園学の折下吉延、上原敬二、佐藤昌、関口鍈太郎、田阪美徳、田治六郎、森蘊、森一雄、北村徳太郎、吉永義信、横山信二、農業工学の上野英三郎、農業経済学の矢作栄蔵、食糧研究の稲垣乙丙、実験遺伝学の外山亀太郎など多くの人材を輩出した。