公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

今読んでる 『深重の海』 津本陽 & 釧路の捕鯨が復活

2019-07-06 21:35:00 | 今読んでる本

鯨方はベンチャービジネスやのし。<道義と想像力>は個人一体の能力 鯨方のリーダーに求められる危機管理の基礎は人間の力

 発行がちょうど学生時代だったので、読むべき本は山のようにあった、故に津本陽は一冊も読んでいなかった。

『深重(じんじゅう)の海』 これ以上の作品は 津本氏は結局生涯できなかったのではないだろうか?和歌山出身だからこそ書けた作品。そのほかには剽窃など悪い話も散見するが、50前まで同人でどれだけ食えたか。どう生きていたかは知らないが、作家人生はまっとうできたから幸せな人生だったのだろう。昭和四年生まれ、父と同じ高等小学校早生まれ入学世代だ。


1位『窓ぎわのトットちゃん』800万部
2位『こころ』718万部
3位『人間失格』670万部
4位『永遠の0』546万部
5位『坊っちゃん』412万部
6位『雪国』408万部
7位『友情』407万部
8位『斜陽』394万部
9位『潮騒』380万部
10位『破壊』374万部

 


《古式捕鯨発祥の地とされる和歌山県太地町の漁協魚市場で4日、商業捕鯨再開後初の鯨肉の入札が行われた。商業捕鯨は領海と排他的経済水域(EEZ)を操業海域として1日に31年ぶりに再開された。  北海道の釧路港から1日に出港した沿岸捕鯨の船団に、太地町から「第7勝丸」が参加。釧路で水揚げされたミンククジラ2頭のうち、解体された1頭の赤肉など約66キロが太地町へ運ばれた。  クジラの資源管理を担う国際捕鯨委員会(IWC)は1982(昭和57)年に商業捕鯨の一時停止を決定。日本は長年にわたり再開を求めてきたが認められず、昨年12月に脱退を通告した。日本は63年に商業捕鯨から撤退する一方、 商業捕鯨再開に必要なデータを集めるため調査捕鯨を続けてきた。》

1677年(延宝5)、和田忠兵衛頼元の孫、太地角右衛門頼治(たいじかくえもんよりはる;通称総右衛門)が突取法に網を併用した「網取法(あみとりほう)」を開発する。ひたすら鯨を追いかけて銛を打ち込んでいたものを、鯨を網にからませて動きが鈍くなったところで銛を打ち込む。網を併用することで捕獲率が高まった網取法は、太地が起源。》《水野公も「何故、他国に伝授しようとするのか。」と尋ね。角右衛門は即座に、「紀州・土佐で共に捕鯨が栄えれば、共に住民も豊かとなりましょう。」と語りました。その決意の固さを見た水野公は「業を建てるのは天下の祥瑞である。宜しく羽刺十人、その他漁師六十人を土佐へ遣わすべし。」との決断を角右衛門に下した。

鯨方はベンチャービジネスやのし。事業リターンの確率を上げる技術開発、資金調達、先行投資、確実にありながら自然相手のままならない獲物、黒船の出現。古式捕鯨は江戸時代のベンチャービジネス。

釧路市は(正確には厚岸が昭和6年、土佐衆釧路は根室昆布盛より遅れて開発されていた)、古くから捕鯨が盛んに行われ、昭和27年から10年間にわたって全国一の捕獲数を記録する日本屈指の捕鯨基地だった。間違いなく太地浜の末裔がきっと関与している。母方の祖父が岐阜県郡上郡奥明方おくみょうがた村(1970年昭和45年)4月20日 奥明方村が明方村に改称、現在は明宝村(めいほうむら))で祖母が和歌山出身の北海道移住者なんで、正月の雑煮には角餅と丸餅とがあった。明らかに祖母の親戚阪口は黒潮の民だった。ATLで62才で死んだ。明治期たぶん捕鯨に関係する食い詰め流れ者の末裔だったのだろう。だんだんと記憶が蘇ってきた。なぜか母が釧路の鯨解体業者に顔がききこんな光景の解体場に入れてもらった。入舟町?近くに親戚の家があったような記憶。今でも溺れる夢を見るし本能的に水が怖い。この物語の明治時代までの米国捕鯨は沖で肉を捨てていた。


参考; 歴史的事件 としての大背美流れ(おおせみながれ) 明治11年12月24日早朝、太地鯨方は、小雨まじりの東の風が強く荒模様の海へ総勢184名・19隻で出漁しました。この年は近年にない不漁で、このままでは正月も迎えられないという従業者たちの不安と切迫感が無理な出漁を促していました。 沖に出て準備を整え待っている船団に午後2時頃、山見から「鯨発見!」の合図があり全員が欣喜雀躍しました。 しかし、発見した鯨は、未だ嘗て見たこともない大きな子連れの背美鯨で、そのような巨鯨は当時の技術ではしとめるのは難しく、昔から大背美流れ(おおせみながれ) 明治11年12月24日早朝、太地鯨方は、小雨まじりの東の風が強く荒模様の海へ総勢184名・19隻で出漁しました。この年は近年にない不漁で、このままでは正月も迎えられないという従業者たちの不安と切迫感が無理な出漁を促していました。 沖に出て準備を整え待っている船団に午後2時頃、山見から「鯨発見!」の合図があり全員が欣喜雀躍しました。 しかし、発見した鯨は、未だ嘗て見たこともない大きな子連れの背美鯨で、そのような巨鯨は当時の技術ではしとめるのは難しく、昔から「背美の子連れは夢にも見るな。」といわれるほど気性が荒々しく危険であるといわれていたため、山見の両檀那の意見は、この鯨を捕るか否かで対立していましたが、鯨は刻一刻と近付いてきていました。(下線部には、むしろ歓迎していたという証拠があるという異論があるとするコメントもある) 激論の末、4時近くに「直ちに捕獲にかかるべし。」と断は下され、急いで燈明崎の前に網が張られましたが、鯨は湾内の方に向ったため更に張り替えたところ母鯨がわずかに網にかかり、驚いた鯨はすさまじい勢いで暴れた後、東南の沖へと逃げ出しました。 冬の日は落ち、激しさをます風雨の中、船団も懸命に追い、その巨鯨との激闘は夜を徹して続けられ、翌朝10時、ついにしとめることができました。 いつの間にか空は晴れ、海も穏やかになっている中、食料と水は絶え精魂使い果たした男達は再び必死の力をふりしぼり獲物を持双船に繋ぎ帰路に着きましたが、見上げるばかりの巨鯨のため力漕しても船は進むどころか逆に潮流に引かれて沖に向いついに黒潮の流れに入ってしまい熊野の山は遠くなるばかりで、お互いに声を出して励まし合い渾身の力を込めて漕ぎ戻そうとしましたが、飢餓に陥った体は既にその力を失い、そのままでは助かる見込はなくなり、一同緊急協議の結果、命を懸けてしとめた一家を救うための価千金の獲物を切り離すより術なしと判断し、係留綱を断ち切りました。離れていく巨鯨を眺める男達の目からはとめどなく涙が溢れるばかりでした。 生きなければならない、全員でそれぞれの船を繋ぎ固め再び必死の思いで漕ぎ帰ろうとしましたが、すでに櫓を持つ力さえ失い、洋上を渡る師走の風は身を刺す寒さで、日が暮れていくのにつれて波もうねり、互いに衝突し浸水する船も出始めたため、午後4時頃、ついに各船を結び止めていた綱を断ち切ることになりました。 解き放たれた船は強風怒涛に巻き込まれ、老人から10才にも満たない少年までが乗る船は、漂う木の葉のように海中に沈み、それは将に地獄の様そのものでした。記録によるとその月の30日、出港して7日目に九死に一生を得て伊豆七島神津島に流れ着いた8名を含め、生存者はわずか13名とされ、餓死12名、行方不明89名という未曾有の大惨事となりました。 突如として100余名の働き手を失ったこの小さな漁村は死の村と化し、家の前を幾日も泣きわめきながら走る妻たちがいたといわれています。 「大背美流れ(おおせみながれ)」 と呼ばれ今も語り継がれているこの悲劇と、町民の窮地を救うために命を賭けた漁師たちの高貴な心を、長く人びとの心にとどめておくために、平見に上る坂道の中ほどに「漂流人記念碑」と刻まれた碑があります。捕鯨の歴史の上で決して忘れることのできない悲劇と、海に殉じた多くの人々の霊の安からんことを念じる思いは永久に消えることはないでしょう。 が、鯨は刻一刻と近付いてきていました。 激論の末、4時近くに「直ちに捕獲にかかるべし。」と断は下され、急いで燈明崎の前に網が張られましたが、鯨は湾内の方に向ったため更に張り替えたところ母鯨がわずかに網にかかり、驚いた鯨はすさまじい勢いで暴れた後、東南の沖へと逃げ出しました。 冬の日は落ち、激しさをます風雨の中、船団も懸命に追い、その巨鯨との激闘は夜を徹して続けられ、翌朝10時、ついにしとめることができました。 いつの間にか空は晴れ、海も穏やかになっている中、食料と水は絶え精魂使い果たした男達は再び必死の力をふりしぼり獲物を持双船に繋ぎ帰路に着きましたが、見上げるばかりの巨鯨のため力漕しても船は進むどころか逆に潮流に引かれて沖に向いついに黒潮の流れに入ってしまい熊野の山は遠くなるばかりで、お互いに声を出して励まし合い渾身の力を込めて漕ぎ戻そうとしましたが、飢餓に陥った体は既にその力を失い、そのままでは助かる見込はなくなり、一同緊急協議の結果、命を懸けてしとめた一家を救うための価千金の獲物を切り離すより術なしと判断し、係留綱を断ち切りました。離れていく巨鯨を眺める男達の目からはとめどなく涙が溢れるばかりでした。 生きなければならない、全員でそれぞれの船を繋ぎ固め再び必死の思いで漕ぎ帰ろうとしましたが、すでに櫓を持つ力さえ失い、洋上を渡る師走の風は身を刺す寒さで、日が暮れていくのにつれて波もうねり、互いに衝突し浸水する船も出始めたため、午後4時頃、ついに各船を結び止めていた綱を断ち切ることになりました。 解き放たれた船は強風怒涛に巻き込まれ、老人から10才にも満たない少年までが乗る船は、漂う木の葉のように海中に沈み、それは将に地獄の様そのものでした。記録によるとその月の30日、出港して7日目に九死に一生を得て伊豆七島神津島に流れ着いた8名を含め、生存者はわずか13名とされ、餓死12名、行方不明89名という未曾有の大惨事となりました。 突如として100余名の働き手を失ったこの小さな漁村は死の村と化し、家の前を幾日も泣きわめきながら走る妻たちがいたといわれています。 「大背美流れ(おおせみながれ)」 と呼ばれ今も語り継がれているこの悲劇と、町民の窮地を救うために命を賭けた漁師たちの高貴な心を、長く人びとの心にとどめておくために、平見に上る坂道の中ほどに「漂流人記念碑」と刻まれた碑があります。捕鯨の歴史の上で決して忘れることのできない悲劇と、海に殉じた多くの人々の霊の安からんことを念じる思いは永久に消えることはないでしょう。



津本 陽(つもと よう、1929年昭和4年)3月23日 - 2018年平成30年)5月26日)は、日本小説家。本名、寅吉(とらよし)


和歌山県和歌山市出身。旧制和歌山中学校を経て、東北大学法学部卒。同人誌VIKING』で活動し、掲載作「丘の家」が第56回直木賞候補。1978年(昭和53年)、故郷和歌山を舞台にした『深重の海』で第79回直木賞を受賞。膨大な資料をたどり、小説の中で逐次資料の内容の提示と解説をしながら話を展開してゆく形式が多い。文体は情緒性を排した重厚で簡潔な表現が主体。

題材は主に剣豪戦国大名幕末英傑を主題にした歴史小説が多い。撃剣興行を描いた『明治撃剣会』を始めとする剣豪小説で人気を得る。剣道抜刀道五段の腕前を持ち、武道への造詣が深く、剣豪だけの持つ高い境地や剣技の精密な描写をすることに長じる。戦国時代塚原卜伝柳生新陰流柳生兵庫助示現流の創始者東郷重位江戸時代後期の北辰一刀流千葉周作らの伝記小説において活写されている。

『明治撃剣会』執筆以後は歴史小説を書き、織田信長を題材とし、『日本経済新聞』朝刊に連載した「下天は夢か」は単行本出版後にベストセラーとなった。戦国大名については他にも豊臣秀吉徳川家康武田信玄上杉謙信伊達政宗前田利家等についても執筆している。和歌山県出身であることから、大量の火縄銃を駆使して戦国期に活躍した紀伊豪族雑賀一族を描いた小説『雑賀六字の城』『信長の傭兵』を執筆し、ここでは鉄砲の原理や戦法、戦略について詳細な考察をもとに描いている。

剣豪、戦国大名、雑賀一族以外の分野でも、幕末期の勝海舟(『勝海舟 私に帰せず』)

『勝は人物眼のすぐれた男だが、良順を見誤まったらしい。 (こいつは、馬鹿だ)  と、とびきりな思い込みようをしたようであった。勝は、自分もそのひとりである幕臣に対しては、点が辛かった。かれは幕府が日本の政府としてすでに担当能力を欠いていることに痛烈な憂憤を感じていたし、その無数の理由のひとつに門閥と世襲制があるとする。畑の長芋のように野放図に伸びた連中が、自分自身の存立基盤を否定せずにのんびりと重職の座にすわっているうちに日本は亡びてしまうだろうと思っているし、日本の賊は、夷狄よりもむしろ幕府の門閥人ではないか、と思っている。 (目の前のこいつが、その見本のようなものだ)』司馬遼太郎 胡蝶の夢


西郷隆盛(『巨眼の男 西郷隆盛』)、坂本龍馬(『龍馬』)、中国始皇帝(『小説 秦の始皇帝』)、則天武后(『則天武后』)などを描いている。また熱心な浄土真宗門徒であり、『弥陀の橋は 親鸞聖人伝』にて浄土真宗の教理に善く通じた内容で親鸞を描いている。

1997年平成9年)に紫綬褒章を、2003年(平成15年)に旭日小綬章を受章。

2011年に発足した歴史時代作家クラブの名誉会長兼顧問を務めた。

2018年5月26日、誤嚥性肺炎のため死去[1]。89歳没。

こういう自己主張なら歓迎 たぶんスペイン語で『彼らを生かせよ』

10年前の出来事


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