初出平成8年、『姫』を登記上も終われせた94年から一年後95年に筆を置いてから翌年まもなく出た文藝春秋の新春号。
『一介のホステスがどうして三百万という資金を用意できたかといわれるといちばん辛い。その過程を克明に記すと別の長い小説になる。』
とあるように、本当の苦界は避けて綺麗に書いているが、この本は女の半生記である。女の紡ぎ出した歴史である。
19歳で店を持ち、パトロンがいると誤解していたが、思っていたより前に、昭和30年前後に、身を使って(追補 女優時代1957年(昭和32年)東映、安藤昇の女だったということは、組解散が1964(昭和39年)年12月9日で東興業(あずまこうぎょう) は解散、65年には安藤が俳優になってるからそのずっと前の話し。パトロンはやはり金回りの良かった頃の安藤か?)お金を貯めて水商売を始めている。
安藤昇は1926(大正15)年、東京都新宿区生まれ。海軍予科練の特攻隊で過酷な訓練を受ける中、終戦を迎えた。その後は東京・渋谷を拠点に愚連隊を結成、52年に「東興業」を設立。若く勢いのある同組織は「安藤組」と呼ばれた。
58年には実業家の横井英樹氏(のちの「ホテルニュージャパン」社長)襲撃事件を起こし、35日間の逃亡生活の末、殺人未遂容疑で逮捕され、前橋刑務所に収監された。
服役後の64年、出所すると「安藤組」を解散。翌65年に自叙伝を基にした映画「血と掟」に主演
上羽秀の『おそめ』京都木屋町から東京への進出と殆ど変わらない時期に当たる。
有馬稲子
昭和38年東京オリンピック前の夜間工事する銀座
1964年東京オリンピックの年の東京 pic.twitter.com/ZhSHaXuzje
— history image ヒストリーイメージ (@historyimg) October 29, 2022
その後の活躍もなにかと最年少ママでデビューしたイメージがつきまとう。
昭和40年代の有楽町
昭和40年 銀座のネオン
文壇クラブの編集払いの扱いがこそばゆい野坂昭如の玉手箱ユーモア溢れる解説もいい。結局は払いはほんのちょっとだったようだが。一万円札事件と『うちの女給はみんな自殺未遂してるのよ』という洋子ママの言葉に野坂もハットする。
座って五万円の店では、紋別のあんどうのシェフが開けられなかった『姫』のドアは、山口洋子自身も開けるべきでないと思うとここに書いた。コツコツとデミグラスを煮詰めるような、まともな人間が近づく世界ではない。今なら社員の死ぬちょっとイケイケのベンチャービジネスに似ている。女だけの虚栄と金と実力行使の世界から、まるで自分だけの真実の恋を嘘と知りながら嘘を包み込む嘘で守るかのように銀座川で泳ぎ生きていた女達。
『うそ寒い秋風が男の方から吹いてくる。。恋する女の勘でひやりと衿もとで感じ取っていた。』
おそめに対し
『あんな風に生きられない、そう思った。』とある。
『悪い季節の男に惚れた女には、悪い巡りあわせの木枯らしが吹く。』
作詞家らしいフレーズが所々に出てくる。
『いい男も死んだが、いい女もよく死んだ、そんな時代だった。』
『姫』では、多くの女性が宿命のように命を失っている。私の知る高卒でスカウトされた妓も幸せな結婚はしたと伝え聞くが、早世している。星美のアランドロン攻略床入りも面白いが病死後の後味が悲しい。『エスポワール』、『ラ・モール』大塚英子がいた『ゴードン』、『眉』、風格の『おそめ』、少しあとの『クラブ順子』(ケチな談志がどうして通うかワケを考えてみたら魅力がわかる)梶山季之*、吉行淳之介、川上宗薫、五味康祐*、黒岩重吾など有名作家に加えプロ野球選手がもてた時代、野坂昭如曰く鯛やヒラメの舞い踊る『エスポワール』。そんなお店で酔い狂って結局地下に転がり込む野坂が不思議に山口洋子、大門節子にお別れして欲しくなるそういうお店の戦略は男の弱味を握って離さない。70年代のある意味名店は『徳大寺』オーナーママは徳大寺美瑠でその名を世に知らしめたのは、在籍したホステスが芸能人になっていったこと。小川ローザ、エルザ、五十嵐淳子、風吹ジュンなど。
スターホステスの逸話を読むと、彼女の同志まこと、などは身体を張った任侠女である。ダメな妓も居たろう。順子はその中でも優等な卒業生だった。山口洋子が田村順子《現在77歳》に贈った言葉 『あなたは流れの激しいネオンの川を、思いがけないほどの巧みさで、きちんと泳ぎぬいた。銀座マダムの座、それはひとりぼっちで激流のカヌーを漕ぐのにも似ています。派手なうわさもあった、やっかみ交じりのうわさも。でも私は知っていました。あなたの素顔のどこかに、昔と少しも変わらない野菊の強さと可憐さが残っていることを。』ネオンの川の見える人たちにのみ通じる賛辞であろう。
*《「数年前、梶山先生と銀座のバーで飲んでいるとき、先輩の作家がホステスにけしからんことをした。 ぼくは不愉快になってその作家に詰め寄ったわけですよ。すると、先生もその作家に注意した。 そうしたら、“梶山、そんな口をきくのは十年早い!”と怒って、先生につかみかかってきたけど、先生は毅然とした態度で、 “年齢に関係なく、悪いことは悪い”とピシャリ。 居合わせたほかの作家は、ニヤニヤしているだけなのに、先生はさすがに立派でしたよ。 ぼくはそのとき、勇気ある正義漢とは梶山先生のような人間のことをいうんだ、とつくづく思いましたね」『女性自身』五十年五月二十九日号“追悼特集・作家梶山季之氏(46)香港で客死!”(「五味康祐と梶山季之の銀座の決闘」『週刊サンケイ』四十二年一月二日号)。》引用元
今でも電通通りにある店に行くと2013年まであった2次期の銀座のクラブで『(姫)』に居た銀座のマダムとして紹介されることもある。この世界美人なだけではだめ。東大に入るよりずっと難関の高等社交教育機関だったかもしれない。山口洋子自身が現場に居たのは開店から37年のうちの20年ほどか。世間が知る山口洋子は既に作詞家だった。本気で男を追いかけた夢も見たが、元の店の子にとられて地獄を見た回想も後々の闘病のエピソードに比べて見ればいい思い出かもしれない。人には恵まれても、死神が居たのかもしれない『姫』、いい医者に恵まれず寿命を縮めた美空ひばりと同じ歳の山口、様々な賑やかなお客に先立たれる虚像の最後が哀れである。
1987年7月17日、鶴田浩二と同じく昭和の大スターだった石原裕次郎が、52歳の若さで肝細胞癌。また、美空ひばりは当時入院中で、1987年8月3日に一旦退院したものの、1989(平成元)年3月に再入院、1989年6月24日に間質性肺炎と呼吸不全52歳でこの世を去った。世界が金融を中心に逆回転始めた1989年そんな昭和の終わりに抗うように酒場の現場はないものの、平成6年まで会社形式は残るが、登記上も終われせた94年で終了。自らの姫業をやめて20年後この世を去っている。その後の別名義の『(姫)』もその頃2013年廃業している。昭和の社交場銀座は影もない。座って20万円の店はあるが、その価値はドラマの中だけ。
山口 洋子(やまぐち ようこ、1937年5月10日 - 2014年9月6日)は、日本の著作家、作詞家。1985年(昭和60年)に直木三十五賞を受賞。愛知県名古屋市出身。京都女子高校中退。57年に東映ニューフェース4期生に選ばれる。同期には佐久間良子、山城新伍らがいた。その後、東京・銀座でクラブ「姫」を開店。60年代後半から作詞活動を開始し「よこはま・たそがれ」(71年)などのヒット作を連発。作曲家の平尾昌晃氏とはゴールデンコンビと呼ばれた。80年代に小説の執筆活動も始め、85年には「演歌の虫」「老梅」で直木賞を受賞した。
花田氏による
こういう評価も小池百合子とどっこいどっこいかな?
『作詞家で、直木賞作家の山口洋子さんがなくなった。
追悼記事だから当然かもしれないが、新聞もテレビもいい話ばっかり。関係者から惜しむ声が相次いだ、と書いたのは朝日新聞。
歌手五木ひろしは「あの出会いがなければ五木ひろしは存在しませんでした」と語っている。
40年前の売れない歌手時代「五木ひろし」と名付けてもらい、山口さんが作詞した「よこはま・たそがれ」を歌って大ヒット。一躍トップ歌手として認知された。
しかし、ぼくは山口洋子さんを作詞家としても、作家としても絶対認めない。なぜなら、「よこはま・たそがれ」は完全な盗作だからだ。
以下比べていただきたい。
先づ 「 よこはま・たそがれ」
1、よこはま たそがれ ホテルの小部屋
くちづけ 残り香 たばこのけむり
ブルース 口笛 女の涙
あの人は行って行ってしまった
あの人は行って行ってしまった
もう帰らない
2、略
3、木枯らし 思い出 グレーのコート
あきらめ 水色 つめたい夜明け
海鳴り 灯台 一羽のかもめ
あの人は行って行ってしまった
あの人は行って行ってしまった
もう帰らない
こちらはアディー・アンドレというハンガリーの詩人の「ひとり海辺で」という詩。三笠書房発行の「世界の名詩集12『世界恋愛集』東欧編」に載っている。山口さんが「よこはま・たそがれ」を作詞するの3年前に発行された本だ。
海辺 たそがれ ホテルの小部屋
あの人は行ってしまった、もう会うことはない
あの人は行ってしまった、もう会うことはない
(略)
あたりに漂うあの人の残り香
波の音が聞こえる、心なき海の楽しげなその歌
波の音が聞こえる、心なき海の楽しげなその歌
どうです? 似てるでしょ。「海辺」が「横浜」に変わっただけ。他にも、灯台、海鳴り、口づけ、思い出などかなりの語句が共通している。これを盗作と言わずして何を盗作というのか。
しかも、「三行めまでのプツンプツンと切れる字句の配置が非常に斬新」という理由で第4回日本作詞大賞、企画賞まで受賞というのだから、呆れるしかない。
実はこのことをぼくは当時「週刊文春」で告発した。このレコードを出したミノルフォンの役員が泣きついてきたが、構わず掲載した。作詞大賞審査員の田辺茂一さんは「受賞取り消しでもしょうがない」といい、口の悪い竹中労さんは「泥棒というか窃盗」とまで。
しかしことはうやむやに終わって、五木ひろしは大歌手になり、山口洋子さんはのちに直木賞まで受賞した。
だからぼくは山口洋子さんの小説は一作も読んでない。読む気がしない。
花田紀凱
月刊『Hanada』編集長、元『will』『週刊文春』編集長
1942年東京生まれ。66年東京外国語大学英米科卒、文藝春秋入社。88年『週刊文春』編集長に就任。6年間の在任中、数々のスクープをものし、部数を51万部から76万部に伸ばして総合週刊誌のトップに。94年『マルコポーロ』編集長に就任。低迷していた同誌部数を5倍に伸ばしたが、95年「ナチガス室はなかった」の記事が問題となり辞任。以後『uno!』『メンズウォーカー』『編集会議』『WiLL』などの編集長を歴任。2016年4月より『Hanada』編集長。テレビやラジオのコメンテーターとしても活躍。産経新聞コラム「週刊誌ウォッチング」、夕刊フジコラム「天下の暴論」はファンも多い。好きなものは猫とコスモス。』