わたしが大学に入学したのはちょうどクラーク博士が札幌を去って100年目のことだった。
有名な別れの言葉*は彼が51歳になる歳のことだ。そして59歳で亡くなっている。
大学の公式見解はこのようには言ってないと断言している。クラークの帰国後は悲惨な結末だった。米国西部にはもはやフロンティアはなく、土地と鉄道バブルがもたらした成金王の自由銀行プライベートバンクに群がる詐欺師達の草刈場だった。クラーク博士もそれなりに名声があったのかそういう投資話の犯人となり詐欺罪で訴えられている。嘘を拡散するのは明治の頃から朝日新聞である。
『安東幾三郎が農学校の機関誌「恵林」に寄せた文章には、クラークの残した言葉は正確には「Boys be ambitious like this old man.」であったと記されている。』
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“Boys, be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”
昭和39.3.16の朝日新聞「天声人語」欄によるものと思われる。「天声人語」はその出典として稲富栄次郎著「明 治初期教育思想の研究」(昭19)をあげ,さらに次のような訳文を添えている。「青年よ大志をもて。それは金銭や我欲のためにではなく,また人呼んで名声 という空しいもののためであってはならない。人間として当然そなえていなければならぬあらゆることを成しとげるために大志をもて」
略
しかし,この言葉がクラーク博士のものであることを認めるには,いくつかの無理がありそうである。まず,“Boys, be ambitious!”は帰国に際し島松まで見送った学生たちに向って馬上から最後に一声のべられたもので(第一期生大島正健博士の著書による),その時 の状況からみてこれは「さようなら」に代る別れの言葉であったと思われる。この言葉でさえ多くの学生たちが聞きとったことは疑わしい程である。次にクラー ク博士は決して富や名誉を卑しんでいなかったことである。例えば農学校の開校式の演説でも,学生たちに向って「相応の資産と不朽の名声と且又最高の栄誉と 責任を有する地位」に到達することをよびかけている。即ち日本が因襲的な身分社会から脱却した現在では,努力によっては国家の有為な人材となることを妨げ るものは何もないことをのべ,学生たちの青年らしい野心(lofty ambition)を期待したのである。このためにとくに勤勉と節制の必要を説いているが,ここには「神の恩寵」を確信して世俗的な職業に励むピューリタ ンの精神がよくあらわれている。
1877年4月16日 | 日本を出発、アムハーストに帰国。 故郷に帰ってからのクラークの晩年は失意の連続だった。大学を辞任した後に始めた鉱山経営(クラーク・ボスウェル社)にも失敗し、倒産をめぐる裁判にも悩まされた。 1882年には心臓病で倒れ、寝たり起きたりの生活。 |
1886年3月9日 | 59才(60才の誕生日を目の前にしながら)で病没。 |
1890年 | キャンパス内のクラーク邸焼失。この家は、妻・ハリエットと子供たちが住んだビクトリア朝切り妻造りの豪華な家だったという。 |
たった8か月の赴任期間を終えた1877年4月16日月曜日旧暦3月3日のこと、クラーク博士はアメリカへの帰路北広島市島松の駅舎へ。なぜ島松の駅舎だったかというと明治6年(1873年)に開通した函館-札幌間の道路(札幌本道)沿いに設置された駅逓所の一つで、往時の面影を色濃く残しています。駅逓所は、交通不便の地に駅舎と人馬を備えて、宿泊と運送の便を図るため設置された北海道独自の施設があったから。