三つ目はチャコス写本と言われるもので、一九七八年頃、これもナイル川流域のミニヤー県で発見され、その中には話題を呼んだ「ユダの福音書」が含まれている。このユダはイエスを裏切ったとされるあのイスカリオテのユダのことだが、もちろん彼が書いたということではない。この書はコプト語のサイード方言で書かれ、ギリシャ語原典からの翻訳である。この「ユダの福音書」の存在は、一八〇年頃、リヨンの司教エイレナイオス(イレネウス)が書いた書物『異端反駁』の中に登場し、この書の存在については知られていたが、千六百年間土の中に埋もれていた。発掘されたものの年代は、今では放射性炭素年代測定法でかなり正確に割り出すことが出来る。「ユダの福音書」は三十三枚六十六頁の形で発見され、その時点で、はなはだしく劣化していたのだが、見つかってからもなお十六年間、さまざまな経緯で、古美術商や学者らによってぞんざいに扱われ、スイスやアメリカの貸金庫に眠る時期もあった。劣化に劣化を重ねた末、スイスの修復専門家フロランス・ダルブルの工房で修復作業が行われ、このチャコス写本の名称となったスイスの古美術商フリーダ・ヌスバーガー・チャコスらの協力により、今日の姿に整えられた。ぼろぼろに劣化した「ユダの福音書」を我々が読める形に修復される過程で、この二人の女性の貢献は大きい。いま述べた一つ目と三つ目の、共にナイル川流域で発見されたものの多くは、グノーシス思想に基づく福音書で、『ダ・ヴィンチ・コード』がイエスとマグダラのマリアの関係を語るにあたり資料としたものも例外ではない。根底となる資料がグノーシス思想に基づく福音書である以上、イエスをめぐる女性について論ずるためには信憑性を欠いたものとならざるを得ない。グノーシスとはギリシャ語で「知識」を意味するが、その系譜は複雑で、大貫隆訳著『グノーシスの神話』(岩波書店)など多くの研究がなされている。グノーシスはどのような必要性から生まれたのか?その一つは、この世界を見る時、地震、暴風雨、洪水、飢饉、干魃、伝染病、貧困、苦痛など、災いだらけである。どうして、この世はすばらしい世界だなどと言えようか、という問いかけに発する。この世界を創造した神は唯一でもなければ全能でもなく、むしろ劣位の神である。しかし、この世界の責任を神に負わせることはできない。救済は、この世界と物質の牢獄から逃れる方法を学び、認識(グノーシス)した人だけが得られる、とする思想である。
米田彰男. 寅さんとイエス【改訂新版】 (筑摩選書) (pp.53-54). Kindle 版. よりグノーシスは20世紀以降、この教えの原典文書が発見され、研究された結果、キリスト教とは別個の宗教と分かった。
劣位の神 デミウルゴスとは、プラトンの創造作品『ティマイオス』における創造神である。この単語は一転しグノーシス主義における創造神という扱いを意味するようになった。
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