私小説も抽象小説も、作家自身による何らかのトポス※廃棄物である。煩わしくなった論理、包含関係を捨てるための「嘘ばなし」のカタルシスが小説だろう。だから誰もが何らかの1行小説の作家であり主人公でありうる。
芥川賞作家麻吹真理子がいう考えている内に見失ってゆくという感覚はあるのは当然だろうと思う。なぜなら主体という意識で書くことは排泄に最も近い生理的な精神活動だから。モヤモヤは出さなければスッキリしない。このモヤモヤがトポスという自我とその他との間の包含関係なんだろうというのが私の考えだ。
「このところ「書く」ことをめぐる書くことがふえている。じっさいに小説のことを考えているときは、日々、紙に一文字を書きつけることに手一杯で、書きつつある作品を通して「書く」行為そのものを考えたりすることはあっても、それを明文化したことはなかった。思いめぐらせていなかったところに思考を向けている。自分のなかで動きつづけるぼんやりとした考えがもやもやとひろがり、かえって思考の視界を遮ったりもする。考えの端緒や推移、結論もまちまちで、いったい具体的にどのように作品を書いているのか、考えてもいっこうにわからない。一文字さきがわからないまま書いている、と思っているが、ほんとうにそう思っているのか。考えている主体であるところの「私」の範囲がどこまでなのかさえ、考えているうちに見失ってゆく。
考えたことのなかから大切なところだけを繋(つな)げてゆくと文章は直線にしたてあがる。しかし、そうして書かれた文章は、考えは明確であってもひどくつまらない。それは言いたいことと考えたことしか書かれていないからで、大切なことだけしか書かれていないものは面白くないのかもしれない。直線の文章は、一見、明確なようにみえて、じつはほんとうに大切ないろいろなものがこぼれ落ちているのではないかと、うっすら思う。」
※ 文学に限らず、自分の居場所はトポス。そこを囲む図形は心地よさのトポロジーであろう。自分を点として◇の図形の真ん中付近に置いてみると、どのように左右が伸びようとも自己像は変形されても本質的包摂関係は変わらないというのがトポロジーである。
『文学のトポロジー』奥野健男(おくの たけお、1926年〈大正15年〉7月25日-1997年〈平成9年〉11月26日)は、文芸評論家・化学技術者。多摩美術大学名誉教授。父は最高裁判事の奥野健一。)の遺作ともいえるのだけれども理科系の文学者は最後に謎めいた課題を残していってくれた。
変形に耐えられなくなると、もうやめじゃ。しんどくなってきた。世間に泣きを晒すのも、日本人にとってはカルシスによる日本的トポス(しがらみ)の捨て場ということだ。これができれば精神を病むことはない。
過去の点とその囲みトポスはもう古くはないか。自分は一体どこに嵌まるべきなのか。
いつまでこの身分が続くのか。こういう疑問から逃れられないのが近代個人決定主義だ。
1行の小説を書くことで人間は自分を完全に自己分裂させて救うことができる。でもそれでは現実は変わらない。ただ一時のカタルシスがあるだけなのだ。
所詮、文筆活動は一時の気休め、その共有だ。運が良ければ筆で食べていける。
生業生活者の日常には正義も道理もなく、ただ切実な明日があるだけだ。詩人が詩人として純化するために一人で前に出るほど、そういう生活や生死そして欲望と絶望感というリアルからくる切迫に詩人自身も置かれているであろうという事を自覚して臨まなければない。
詩人は世界の内面化を通じて個の内実をさらけ出して初めて言語に落としこむことが可能になる。そこで多くの詩人は失敗する。左翼運動とて同じである。なぜなら革命家と詩人は最も似通った生業であるのだから。詩の失敗として日本人の精神の歴史を叙述分析した先駆者吉本隆明の発見は偉大である。
この性質から文学、あるいは文筆成果物(ただただ面白いだけの読み物は除く)というものは常に作家にとっては、自己分裂の所産トポスの失敗であり、モヤモヤしたどこかに流してしまわなければならない何か、排泄物、である。文学者が他人のトポスの抜け殻を蒐集して並べて比較してみても、せいぜいヤドカリの家替え程度の満足しかないだろう。
愚かなことに近代知識人は、書くことすなわち排泄を格段に高尚なことと思い込んでいる。
理念の運動点、波動の伝達点としてのトポスとは世界が違う抽象と信じている。容易に捨てることができない社会の蜘蛛の巣トポス。しかし個人と理念の鬼ごっこ関係はそう思っているだけの知識による虚構拘束(地図をみて迷う典型例)である。**教養や洗脳や勉学によってトポスに包含される個人の対外関係が捨てられない生理状況だからといってその理念が重要であるという証拠が出たわけではない。重要な病理ではあるが、最高理念があったとしても、せいぜい他人の作った穴、ヤドカリの満足があるだけである。
他人の知識に頼るのはただの気休めなのだ。あるいは怠惰の言い訳
**教養主義についてはこちらking-biscuitが詳しいので参考に見てください。
故に自己分裂をカタルシスによって解決する脚本を拒絶した時点で、現代知識人は「実存主義的何か」を人生に求めるという虚構の病気を悪化させる。
この病気の処方箋は人生の捨てるべきタイミングでトポスを捨てる。それが近代以降の精神衛生なのだ。芥川龍之介の不安は結局そういう病気だったと思う。(不安の原因はリンク先を参照してください)
そもそもだが、自立した個人の存在を前提とする近代は近代以前とは善悪のあり方が異なる。善理念に向かって全責任を負う個人があるのが近代だが、それ以前は善理念と個人との間には埋めるべき境界ギャップがない。一方で近代以前は悪はそれが生まれた時から悪であり善は悪のない清い状態に過ぎない。善の用心の隙間から魔が忍びこみ取り憑く悪を禊ぎ払うのが個人と善理念の関係だった。これは貞観年間ころから意識し始められる、国境概念や貞観の入寇を契機に整理された神国日本を祈る防衛と辺境域として東西南北の穢れの境、仮想敵国新羅としたことがその後の国体概念に影響を残している。
wiki貞観14年から19年にかけて編纂された『貞観儀式』追儺儀(ついなのぎ)では、陸奥国以東、五島列島以西、土佐国以南、佐渡国以北は、穢れた疫鬼の住処と明記されている[37]。こうして対新羅関係が悪化すると、天皇の支配する領域の外はケガレの場所とする王土王民思想も神国思想とともに形成された[37]。wiki川尻秋生「日本の歴史|平安時代 揺れ動く貴族社会」小学館2008,265頁
尾崎紅葉の未完小説「金色夜叉」の間寛一とお宮も、寛一が近代的個人、お宮が前近代の善人の典型と思えば、実はあるべき許婚とのギャップに狂っていたのは寛一の方なのではないかとさえ思える。
「吁(ああ)、宮(みい)さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処(どこ)でこの月を見るのだか! 再来年(さらいねん)の今月今夜……十年後(のち)の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」
物理的な境界線がトポスと自分の関係を決めることもあるし、信仰と非信仰の境界線がトポスと自分の関係を決めることもある。
より身近な例では女の恋愛がトポスを異性性愛とを同時に選択している。
女にとってトポスのない恋愛はゲームあるいは売春ビジネスである。なぜならゲームは女にとって子宮を使わせることではないし、男にとってはしがらみのない性愛に誘引され買いやすい慰めだからだ。不思議に逆は稀である。なぜなら本質的に子宮を持つ女の恋愛にはトポスが不可欠なのだ。ゆえに女との肉体関係は、男はたとえそれが膣までのゲームでも本気でも、男を女のその中に残すのであれば、その排泄行為の中にトポスがあることを愛言語化し面倒でも愛声を交えて行うべきなのだ。男にとって性愛は排泄であり文学の創作と同質のものと考えるべき。昔から文豪には性豪が多い。安部公房など典型だろう。
人間一般はそのようなトポロジーとして、面倒な関係の数を増やしながら生きている。逆説的に生きる手段としてそこに自ら囚われ、時には目的倒錯した空虚な言葉だけのトポロジーつまりは《乗り移り》の居場所がある。
トポスの病魔。
そのような白痴的幼児精神ではなく、より主体的積極的関係によって規定されるトポス、理念の運動点としてのトポスでさえ、ややこしいことに、トポス自体が自分の意思や動機を元とする関数となる。これが個の根拠であるモナドを捨てたトポス(故にトポスとはいえない)すなわち党派(あるいは日本においては社会の空気になる)というものになる。トポスとは、精神波動の言語化、信念の粒子化なしには成立しない。
言葉を失うと社会の支配構造下ではトポスは急激に不安定なものである。
ことに以下のような信念の粒子化に必要な言語を禁止または憚る世の中では知識は不安であり持っているだけで苦痛である。これまで日本人は空気の犯罪を度々起こしてきた、記憶に新しいところでは、安倍晋三暗殺被疑者減刑運動、連合赤軍リンチ殺害死体遺棄事件、永山則夫事件、金嬉老事件、五一五事件。これらはみな素心空虚な関数化したトポス、つまり信念なき連想理論が暴走した空気の事件であった。
邪悪 売国奴 白痴 売女など、近代の所産=穢れた空気トポスを跳ね返す、伝統と信念の言葉を失うと伝統的安定トポスは急激に不安定なものになるのである。日本人にとって祝詞とはそういう武器である。
近頃は馬鹿や阿呆、女の腐ったものも伝統と信念で跳ね返す言葉群に加えられる。そのため近代化で失われた祓いの言葉は本能的に新しい言葉で補充される。エンガチョなどもその例。
社会に拡がる不安の論理はトポスの喪失であり、信念の光の喪失である。さまざまな社会の暴走は中身のない関数化したトポス=社会の空気が原因である。以下は昭和初期の空気が信念の代替を求めた結果の流行
昭和2年 芥川の不安
昭和8年 転向
昭和9年 シェストフ的不安 詳しくはhttps://blog.goo.ne.jp/kmomoji1010/e/c333217667d62406157844edc5a2ecf7
吉本隆明の都市論への傾斜は、この1972年頃トポス喪失領域を転向「過去に責任がないわけではない論」という断面を通じて、変わってしまったトポスを新・新左翼と名付けて自己定義して収まるべきトポスを都市空間に再発見した先駆者であろうと思う(「わが転向」 吉本隆明)。
もちろん他の民族にも愛や直覚はありますが、遠隔や隔離して通信(心)できるものではありません。
同じ愛でも日本人とは感じ取る情緒のレベルが異なっています。西欧の愛、特に神の愛に息苦しさを感じのは、西欧の神の愛にはトポスがないからだと思う。日本人の情緒に潜む大いなる虚に基づく大誠意の前に薄っぺらい愛の説教は無意味なのです。
愛という外来語的意味使いがかつての日本になかったことがその良い証明です。
だから日本人の論理、言葉には情緒の次元が無意識に付随しています。
【発展】
理念の運動点としてのトポスは私の考える情報空間主義的に解釈されたモナド論の論理空間上の演算基礎構造のありかである。
トポス
モナド
写像
私の考えるトポスの情報空間主義的解釈では、この三つは数学の群、元、二項演算に対応する。ゆえに原点の違うトポス、つまり単位元に相当するモナドを異なって持つトポス間では、同じ演算を利用していても別の世界を形成して発展する。
無理に一つの個人の中に原点の違うトポスを同時に持つ事(洗脳とマスメディア)が自己分裂、文化的分裂という近代の個人主義をこじらせた精神病の原因である。
トポスは霊性(霊的写像)に通じる。この文脈を辿ると、精神波動の言語化、信念の粒子化がなければ人間に霊性は生じることはなく、霊的種族として他の種族から独立することができないと考える。言霊や祝詞は霊的種族の独立をもたらす。
ゆえに人間はこの演算上の類的存在ではあるが、決してマルクスの言うような&類的存在一般ではないのである。逆に演算可能な、したがって予測可能なトポスがあれば、人間社会は類的存在の性質をトポスの形式から貰い受けることができるという自然がある。日本人の神社参拝や一神教の聖地礼拝には宗教の外観を模倣した霊的種族のアイデンティティ確立という意義がある。
&類的存在については以下の私的内部リンクを参照ください
文学とはこのように誰もが持っているトポス、その人を元とするその人の及ぶ範囲への写像、場所的関係の捨て場、抜け殻である。文学は自己関係と自己分裂の化石である。