公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

王道文明

2011-01-15 18:42:04 | マキャヴェッリ
「東洋が王道文明を理想として来たのに自然の環境は西洋をして覇道文明を進歩せしめたのである。覇道文明すなわち力の文明は今日誠に人目を驚かすものがあるが、次に来たるべき人類文明の綜合的大成の時には断じてその中心たらしむべきものではない。」石原莞爾 (昭和十六年)「最終戦争論・戦争史大観」中公文庫、中央公論社

 石原莞爾の「最終戦争論」ほど幻想に溢れた著作は見た事が無い。石原莞爾は戦犯候補として尋問されたが、立件される事無く病死している。日本が孤立の道を選んだときから、日本には東洋という新しい幻想が必要になった。「最終戦争論・戦争史大観」の中に核戦争の卓見は認められるが、痛々しいほどに誇大妄想と狂気に満ちているこの著作の何が私の興味を引きつけるかと言うと、石原莞爾の最終戦争発想だ。日米戦争を通じてしか平和はこないという確信はいったいどこからきたものだろうか。不思議は自ら王道文明の守護者を標榜する根拠を日本の歴史、三種の神器自体に求めているところだ。神秘主義が合理的推論に接ぎ木されている不思議。

 石原莞爾には王道文明の精神性が世界の中心に置かれなければ戦争に命をかける価値が無いそういう考えがあったのだろう。石原莞爾ほどではなくても少なからぬ人々がそういう思いで戦争で死んでいった事を思うと幻想と言う武器の罪深さに胸が痛む。

 精神的な武装解除というものは民族に決してあってはならない事だ。「最終戦争論」はそのような意味で精神的な武装解除を絶対的に拒絶していることに日本から失われた<精神の螺子>だ。

 敵を完全に打倒するまで戦う絶対戦争へと向かう流れは、若いころのクラウゼヴィッツにとって魅惑的であるとともに恐ろしくもあった。その後、歳を重ねたクラウゼヴィッツは、実際の戦争が依然として絶対戦争にはいたらない理由を理解し、

クラウゼヴィッツの戦争論は未完だった。


最終戦はすでに起こっていた。
"マサチューセッツ工科大学卒の史上初のエンジニア、アルビオン・W・ハートがアフリカ内地における開発プロジェクトを任命された時のことである。彼をはじめとした開発者の一団は砂漠を横断し、アフリカの未開地へと向かう険しい道を進んでいた。「その時、彼は説明しようのない景色を目の当たりにして、言葉を失った。それは見渡す限り続く、緑がかったガラスに覆われた広大な砂漠だったのである。」そして文章は以下のように続く。「そしてそれから数十年後、彼は人類史上初めての原爆実験が行われた砂漠を歩き、その光景を見て確信した。それは彼が50年前にあのアフリカの砂漠で見たものと全く同じ光景だったのである。(「岩と鉱物」誌1972年/396号 マーガレット・キャソンの記事「A・W・ハート伝」より)」"



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