公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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書評『利休にたずねよ』 山本兼一

2016-12-08 18:29:33 | 今読んでる本
2016.12.12. 本日読了 いろいろ調べながら読み、思った以上に時間をかけて読了。


山本 兼一(やまもと けんいち、1956年7月23日 - 2014年2月13日は、京都市生まれの小説家。京都市立紫野高等学校、同志社大学文学部文化学科美学及び芸術学専攻卒業。)を失ったのは大きな損失だなと深く思う。連歌の趣や宗恩との関係から人間の距離感と言うものが、この小説の伏線だ。連歌では上の句(発句)に寄せて近すぎては風雅の共鳴に乏しくなって、いけないという。風雅共感という座興の美の本質が伏線として着想時点から書き込まれているのに感服した。これほど主従、男女、夫婦の距離を普遍法則として教えられる小説はない。

連歌遊びの上の句も下の句(二の句:発句に対する脇の七七)も元は別の人間の脳裏であるから、男女の感じ方と同じく元々混じり合わないものである。ところが一対の妙と趣が偶然や風情によって句も男女も共鳴する。人間の主従もそのようなものであり、利休の失敗は秀吉の不興をかっての切腹よりも宗恩との共鳴しない関係にあったとする視点が面白い。利休は二の句となるべき宗恩の脳裏を、利休の脳裏に近づけすぎて同じ独善、美学で解釈してしまった。利休の感じる美しい二の句は十九歳のときの異国の貴女という偶然の風情だったと私が感じた悪人利休は著者の企図した構成上の皮肉とも言える。

美の原理に利休が気づきながら十九の時の貴女よりのち満足すべき女を、名物であるかのように利休流に手にすることができなかった利休の失敗。そんな絵が、待庵で宗恩が、まるで磯の苫か牢屋と喝破したときの無言の利休の動揺と見る。章立てを何度か往復して読むのも良いだろう。

ところで「利休にたずねよ」とは何をたずねるのか?私には美とか目利きとかというものではなく、歴史上の切腹理由の謎も、装置としての高麗名物らしい隠し持たれた香入れもさることながら、山本兼一氏の意図は、これを見よと言っているに違いない。人間(じんかん)の妙味、有限な感情のバランスを見失う利休の哀れな姿を教訓とすることだろうと思う。今、真・美・善は極めれば、死を招来する。これを知るべきなのは世界の原理主義者たちであろう。

『戦国秘録 白鷹伝』祥伝社(2002年)のち文庫(2007年)
読 『火天の城』文藝春秋(2004年)のち文庫(2007年)
『雷神の筒』集英社(2006年)のち文庫(2009年)
『いっしん虎徹』文藝春秋(2007年)のち文庫(2009年)
『弾正の鷹』祥伝社(2007年)のち文庫(2009年)
『千両花嫁 とびきり屋見立て帖』文藝春秋(2008年)のち文庫(2010年)
『狂い咲き正宗 刀剣商ちょうじ屋光三郎』講談社(2008年)のち文庫(2011年)
読 『利休にたずねよ』PHP研究所(2008年)のち文庫(2010年)
『ジパング島発見記』集英社(2009年)のち文庫(2012年)
『ええもんひとつ-とびきり屋見立て帖』文藝春秋(2010年)のち文庫(2012年)
『命もいらず名もいらず』上下巻 NHK出版(2010年)のち文庫(2013年)
『銀の島』朝日新聞出版(2011年)
『神変-役小角絵巻』中央公論新社(2011年)
『黄金の太刀 刀剣商ちょうじ屋光三郎』講談社(2011年)のち文庫(2013年)
『赤絵そうめん-とびきり屋見立て帖』文藝春秋(2011年)
『おれは清麿』 祥伝社(2012年)
読 『信長死すべし』角川書店(2012年)
『まりしてん誾千代姫』PHP研究所(2012年)
『花鳥の夢』 文藝春秋(2013年)
『利休の茶杓』文藝春秋(2014年)
『修羅走る関ヶ原』集英社(2014年)
『心中しぐれ吉原』角川春樹事務所(2014年)
『夢をまことに』文藝春秋(2015)

『利休にたずねよ』(りきゅうにたずねよ)は、山本兼一による日本の小説。月刊誌『歴史街道』(PHP研究所)にて2006年7月号から2008年6月号まで連載され、同年10月に同社から刊行された 。2010年10月文庫化(PHP文芸文庫)。第140回直木三十五賞受賞作。

【秀吉賜死】秀吉之を怒り、天正十九年二月二十八日尼子三郞左衞門等を遣はして檢使とし、罪科を宣し、死を賜ふた。利休命を受け、自若として花を活け茶を點じ、終つて阿彌陀堂の釜、鉢開の茶碗、石燈籠を細川忠興に贈り、自作の茶杓と織條の茶碗は弟子の宗嚴に與へ、數寄屋の床上に安坐して自刄した。(翁草卷三十)

侘び躙口など秀吉が何に怒っていたか、そこが読みどころなのだが、ディテールが華やか。映画を観なかったのが却って良かったのかも。見所はヴァリアーノに茶を点て、土塊の焼物に値をつける数寄者の愚かさを関白とヴァリアーノに説明するあたりであろう。野蛮人の奇妙な風習を文化ではなく未開の土俗という描きかたは見事に日本の特異性を映している。大陸出兵に反対し秀吉に疎まれ自死という筋書きが映画版らしいが、全く見ないほうがいいだろう。



専門用語が多い

高麗雲鶴手 こうらいうんかくで
高麗茶碗:
高麗時代末期から朝鮮王朝時代にかけて朝鮮半島で焼かれた喫茶用の茶碗の総称。
もともとは雑器として焼かれたものが日本に舶載されて茶の湯の茶碗に見立てられ、侘び茶の広まり
とともに唐物茶碗にかわって用いられという説が一般だが、確証はない。
雲鶴:
高麗茶碗の一種。高麗時代後期に作られた古格のあるものを古雲鶴、朝鮮王朝時代中期以降
の注文茶碗を後(のち)雲鶴と呼び分ける。多くは筒形、総釉の青磁に雲と舞鶴の文様をはじめとして、丸文、亀甲文、牡丹唐草文などが象嵌されている。古作のうち、丸文の象嵌は狂言師の袴の丸文に見立てて狂言袴と呼ばれる。または、高麗青磁や三島などに見られる飛雲舞鶴の文様そのものをさす。

難しい言葉も
神韻縹渺 しんいんひょうびょう
芸術作品にある、表現できないほどのすぐれた趣のこと。
「神韻」は神業のようなすぐれた趣のこと。
「縹渺」はかすかではっきりとしない様子。
「縹渺」は「縹眇」とも、「縹緲」とも書く。
エスピンガルダ銃
史実はわからないが、燧石式エスピンガルダ銃もヴァリアーノの贈り物に含まれる。これを参考に馬上筒としてNHK真田丸で採用することになる。複雑になるがエスピンガルダ銃はポルトガル語で火縄銃のことらしく、燧石を内蔵した新式銃と紹介されている。本当のことは専門家に聞いてみるしかないが。時代考証には耐えないのかもしれない。


古渓宗陳 こけいそうちん
松無古今色

蒲庵 古渓(ほあん こけい、天文元年(1532年) - 慶長2年1月17日(1597年3月5日))は、安土桃山時代の臨済宗の僧。俗姓は朝倉氏。越前国の出身。大慈応照禅師。古渓宗陳(こけいそうちん)とも。

越前国の戦国大名である朝倉氏の出身で、一族の重鎮だった朝倉宗滴の一周忌に際してその死を悼んでいることから、廃嫡され仏門に入ったと伝わる宗滴の実子が蒲庵古渓ではないかとする見方がある(参考文献p.273参照)。

出家して下野国足利学校
「室町時代の前期には衰退していたが、1432年(永享4年)、上杉憲実

上杉 憲実(うえすぎ のりざね)は、室町時代中期の武将、守護大名。関東管領、上野・武蔵・伊豆守護。越後守護上杉房方の3男。子に憲忠、房顕、周清(上杉憲房の父)、法興、周泰ほか。養父は従兄の上杉憲基。猶子に上杉実定(さねさだ、憲基の実弟・佐竹義人の次男)。関東管領を務め、足利学校や金沢文庫を再興したことで知られる。
応永17年(1410年)、越後守護・上杉房方の三男として越後国で生まれる。幼名は孔雀丸(くじゃくまる)。なお、信頼性のおける史料に、憲実の生年を明記したものはなく、憲実が丁度武家の人間が慣習上判始を開始する年齢にあたる15歳である応永31年(1424年)から判始の記録が見えること、「大内氏実録」に文正元年(1466年)に57歳で死去したと記述されていることから、1410年生まれと考えられている

が足利の領主になって自ら再興に尽力し,鎌倉円覚寺の僧快元を能化に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げた。「能化」とは校長に相当する責任者であるが、江戸時代には「庠主(しょうしゅ)」と呼ばれるようになり、今日では「庠主」と呼ばれる事が一般的である。その成果あって北は奥羽,南は琉球にいたる全国から来学徒があり、代々の庠主(能化)も全国各地の出身者に引き継がれていった。

また、近年注目される文書として、「長徳寺文書」に含まれている「学校省行堂日用憲章写」がある。これは、足利学校そのものではなく、学校付属の療養所の規則であるが、文中にある「応卯三十年」「御判」が注目される。前者は「応永三十年」の誤写と考えられ、応永30年すなわち1423年に足利学校が存在したことの傍証になると考えられる。更にこの年は上杉憲実の主君である鎌倉公方足利持氏が室町幕府に近い小栗氏を討伐(小栗氏の乱)し、更に室町幕府が派遣していた足利荘代官神保慶久を追放して同荘を押領した年にあたる。「御判」とは原文書には足利荘の支配に乗り出した足利持氏の花押であったと考えられ、上杉憲実よりも前に足利持氏が足利学校の再興に関わっていた可能性を示している。


で修学し、その後京都大徳寺の江隠宗顕に師事した。天正元年(1573年)、笑嶺宗訢(しゅうれいそうきん)の法を継ぐため、堺南宗寺から大徳寺の住持職となった。この際に堺時代に知り合った千利休から祝儀を受けている。天正10年(1582年)、織田信長が本能寺の変で横死すると、利休らの依頼を受けて百ヶ日法要を行い、羽柴秀吉が信長の葬儀を行った際にも導師を務めた。

天正11年(1583年)、大徳寺に総見院を開創し、翌12年(1584年)に秀吉が信長の菩提寺として天正寺の建立を企図したとき、建立事業を任された。しかし天正16年(1588年)、石田三成との衝突がきっかけで秀吉の勘気に触れ九州博多に配流となった。千利休の援助により京へ戻り、天正19年(1591年)、豊臣秀長の葬儀の導師を務めるが、この年に発生した利休の切腹事件に絡んで、事件の発端となった利休の木像が大徳寺山門にまつられていた事件の責任をとらされた。その際、いたく立腹した秀吉が大徳寺の破却を試みるが、古渓が使者の前に立ちはだかり短刀で命を絶とうとしたため、秀吉は慌てて使者を引き上げさせたと言われている。晩年は洛北の市原にある常楽院に隠遁した。



密庵咸傑 みったんかんけつ


[生]重和1(1118)
[没]淳煕13(1186)
中国,南宋の臨済宗揚岐派の高僧。福州福清県 (福建省) の人。応庵曇華の法嗣。径山 (きんざん) 万寿寺,霊隠寺などの諸大寺に住し,晩年,四明天竜山に隠退して没した。璋禅人に与えた法語の『密庵咸傑墨跡』 (国宝) が日本に将来され,京都,大徳寺の竜光院に伝わる。




岡倉

最後の訣別をして室を出て行く。彼に最も親密な者がただ一人、あとに残って最期を見届けてくれるようにと頼まれる。そこで利休は茶会の服を脱いで、だいじにたたんで畳の上におく、それでその時まで隠れていた清浄無垢な白い死に装束があらわれる。彼は短剣の輝く刀身を恍惚とながめて、次の絶唱を詠む。

人生七十 力囲希咄 吾が這の宝剣 祖仏共に殺す

笑みを顔にうかべながら、利休は冥土へ行ったのであった。

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