美人同級生名前に意図はあるのないの。この本は典型的少年馬鹿時代のスタンバミーとアメリカングラフィティーの関西版。小説家を辞めるほどの傑作かどうか。百田さんは躁気が強いからやはりもっと短期的仕事があっているかもしれないな。山村暮鳥が言っていたが、書けないことの広大さがうれしく思えるそういう人が小説家に向いている。
『「自分は何となしに童謡こそ真の詩だと思ふやうになつた。そして童謡の対象が人類の未来であり世界の明日である彼等に関するが故に、否、自分ばかりではなく、現在や現実にのみ価値をおく自然主義やプラグマチズムに十分の満足を持ち得ないものとつては、感興殊更である。」(7月27日本井商羊宛)』童謡の対象若い人々が未来である。そういった思いは百田氏もまたそうではないだろうか?
『藝術は表現であるといはれる。それはそれでいい。だが、ほんとうの藝術はそれだけではない。そこには、表現されたもの以外に何かがなくてはならない。これが大切な一事である。何か。すなはち宗教において愛や眞實の行爲に相對するところの信念で、それが何であるかは、信念の本質におけるとおなじく、はつきりとはいへない。それをある目的とか寓意とかに解されてはたいへんである。それのみが藝術をして眞に藝術たらしめるものである。』暮鳥
真実の行為、百田尚樹はここに気づいたのではないか?
永遠の零、先に行った者たちは美しく見える、しかし本当に大切なのは若い人々の未来である。私は先人の為しえなかったある種の哲学的気配を感じながら、あるいはその気配を忘れながら、私は、わたしたちは生きる。それは見えない明日を見るために必要な礼節であると思うから。