公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

今読んでる『藝州廣島藩 神機隊物語』

2018-10-29 18:29:56 | 今読んでる本



偽鋳銭など聞いたことがあったが薩摩は久光の爺さんの代からやっていたとは知らなかった。登場する小栗忠順にいわしめたように政権の発する国力源泉は鋳銭による。よほど偽鋳銭生麦事件の幕府借財を後ろめたく思っていたのだろう。小栗忠順をわざわざ町奉行に左遷してまで、琉球宝銭を認めさせている。

小栗忠順(おぐり ただまさ)はもう内戦も沈静化した慶応4年(1868年)閏4月4日、《東山道軍の命を受けた土佐藩元陸援隊の出身の軍監豊永貫一郎、原保太郎に率いられた高崎藩・安中藩・吉井藩兵より東善寺にいるところを捕縛され、閏4月6日朝4ツ半(午前11時)、取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原(現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)に家臣の荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺太三郎と共に引き出され、斬首享年42。》に殺される。陸軍奉行並幕府高官を沙汰なく誅殺するのはやりすぎ。

偽鋳銭を経済圏とみなして武器調達の舞台を御手洗湊「薩芸交易」にしたのも面白い。広島藩は幕府に見切りをつけ、幕長の仲介役をやめ頼山陽の日本外史・皇国史観に基づき、藩論が大政奉還へと統一されて行くことになる。たしかに作者の言う通り《 慶応3(1867)年12月9日に、明治新政府ができた。その前夜、岩倉具視は自邸に薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣を集め、王政復古の断行を宣言し、協力を求めた。このとき、長州藩士で京都にいたのは、わずか品川弥二郎ひとり。これをもって薩長討幕はおかしくないだろうか。》たしかにおかしい。坂本龍馬についても、著者はどこかで
《「龍馬は政治にはさして絡んでない、鉄砲密売人の目で見るべきですよ」と応えている。》竜馬と龍馬は違う。たしかに身分を捨ててできることはブローカーであったのだろう。しかしブローカーと雖も政治は飯の種であるから、首を突っ込んでいたことは考えられる。薩長同盟とやらは後世の捏造であったとしてもだ。慶応3年に藝薩長同盟が結ばれて天皇親政の中心の防衛として三藩進発の構図は理解できる。孝明天皇の次代の天皇を徳川に奪われること(岩倉具視の裏切り)を倒幕の意思を固めた三藩が何よりも警戒していたに違いない。事実久坂ら長州京都潜入組は七公卿落ちのあと恨みを晴らすべく初期に寺田屋でその試みを阻止されている。背後で操ったとみられていた中川宮は藝州廣島藩に幽閉された。

多くの幕末の物語に藝州が加わって来ないのは不思議に思っていた。死んでしまえば、如何な偉人でも風に揺れる葦の穂である。まあこれから物語は面白くなってくるのだが。まだ途中。

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