どうしても利害得失の現代に生きていると、理屈が情緒に先行する。シークエンシャル(区別と手順と論理分岐のある単線連続処理)な左脳の道理がわからなければ、IQの低い仲間は必ず利害ゲーム(受験、就職、業績、出世、所属社会の上下)及びその予約戦に負ける。負けを避けたいが故に我々の心から、理屈に勝る情緒というものが抜け落ちてゆく。仮想敵は常にIQの高そうな人・社会・システムである。ゲームオーバーと人生の負けは違うのだが、もののあわれが理解できぬ輩にはこの区別がない。
その所為か個人的生活には近頃、句もひねり出てこないほどに日常の業務が理屈ばかりで心が働かない。まめまめしくはたらいて四角く四面でありながら、白く柔らかく納まる人でありたいと、知情のバランスの理想とした豆腐処世を理想とするはのも今は昔のこと。
『白玉翁の豆腐の記に、
その形四角四面にして、威儀ただしく生れ、和かにして、人の交はりにきらはれず。その身は精進潔斎なれども、和光同塵の花鰹に交り、諸社の神前にては田楽を奏し、神慮をすずしめ奉り。先春は桜豆腐に、祗園林の花にいさませ、二軒茶屋にかんばしき匂をこめ、あけぼのの朧豆腐に歌人の心をいさめ、雉子焼の妻恋に、珍客の舌鼓をほろほろとうたせ、和歌連俳の席に月花に心をよせ、一興の味に豆腐のいたらぬ所なし』 林春隆『野菜百珍』「三〇 豆腐の話」
せめて起きて覚醒している間の半分以上は情緒に包まれていたい。そういう古い日本の心のあり方を、心のあり方に基づいた人付き合いを岡潔は粒子が輻射するような魂の振動として、和歌に見られる波動的なじわじわと魂を捉えるも情緒とは感覚として区別していた。
岡潔は数学のオリジナリティは生命を燃やして生まれると信じていたし、事実そういう生活をし、天皇陛下の前でも公言していた。そういう日本の古い心を当たり前のように誰もが前提としていた世間はいまや任侠の世界にも師弟の世界にも無くなって久しい。
キャッチボールをしなくなった大人みたいに、世間から情緒の基本が抜けて情けない。情緒は理屈で説明できないが、きっちり線が引けないことを避けていると、髪の毛が抜けるように哀れな姿に枯れてゆくものであろう。目には見えないが。。
若い頃の野球経験者が何も示さなくてもボールさえあれば無言でお互いにキャッチボールができるのも、技術の問題ではなく、まずは染み付いたココロの問題なんだよね。近代化した情緒がスポーツマンシップというものかもしれない。スポーツマンシップがスポーツにしかないと言う今の世間の方が異常社会と思えなければ古い日本の心は戻って来ない。戻って来るはずもないのだが。。
日本の古い心の物語には必ず理屈より情緒が先行していた。義理というものは現代日本人が考えるような単なる利害関係からくる理屈ではない、元々義理と人情を区別して秤にかけることなどできないのが日本の心なのだが、そんな歌が流行りだすのも50年前の日本人の心が利害得失に侵されていたからだろうなどと思う。世間の義理ごとには必ず情緒(悲しみ、怒り、喜び、感謝、なつかしみ)が伴う。世間の義理ごとは世間に満ちたスポーツマンシップだったと考えおけばいい。気持ちのあるなしだったのだから、失われたとしても目には見えない。見えなきゃいいだろうと言うことに日本人は成り果てた。『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)という良書を前にも紹介し宮崎駿も映画にするらしいと聞くが、青春は失われてはじめて、悲しさ、怒り、喜びを知るものである。家族は失われてはじめて感謝となつかしみを本当に知るものである。失われて気づいた先人が書き残したものは古臭くても読んだ方がいい。日本人が大切にしていた市井に生きる者同士のキャッチボール、世間のスポーツマンシップ、情緒化された律法は古臭いと思ってもやってみるといい。形骸化していれば新しい息吹を加えてやり直して見ればいい。失われたとしても目には見えない、誰も抗えない時代の流れに変わらない永遠を求めることが江戸の遺した文化、蕉門の『不易流行』である。
都会では無言でキャッチボールができる大人が羨ましく思えるように、肝胆相照らす輻射する心をもつ大人吉川英治に会えた岡潔が羨ましい。今、私は雑音が多すぎて霧が晴れず、器量もなく、それができないことが非常に寂しいのである。『灰色と青』中に流れる寂寥。。に似ていた。どれだけ背丈が変わるとも 変わらないなにかがありますように。今も、、、今も、、。
その所為か個人的生活には近頃、句もひねり出てこないほどに日常の業務が理屈ばかりで心が働かない。まめまめしくはたらいて四角く四面でありながら、白く柔らかく納まる人でありたいと、知情のバランスの理想とした豆腐処世を理想とするはのも今は昔のこと。
『白玉翁の豆腐の記に、
その形四角四面にして、威儀ただしく生れ、和かにして、人の交はりにきらはれず。その身は精進潔斎なれども、和光同塵の花鰹に交り、諸社の神前にては田楽を奏し、神慮をすずしめ奉り。先春は桜豆腐に、祗園林の花にいさませ、二軒茶屋にかんばしき匂をこめ、あけぼのの朧豆腐に歌人の心をいさめ、雉子焼の妻恋に、珍客の舌鼓をほろほろとうたせ、和歌連俳の席に月花に心をよせ、一興の味に豆腐のいたらぬ所なし』 林春隆『野菜百珍』「三〇 豆腐の話」
せめて起きて覚醒している間の半分以上は情緒に包まれていたい。そういう古い日本の心のあり方を、心のあり方に基づいた人付き合いを岡潔は粒子が輻射するような魂の振動として、和歌に見られる波動的なじわじわと魂を捉えるも情緒とは感覚として区別していた。
岡潔は数学のオリジナリティは生命を燃やして生まれると信じていたし、事実そういう生活をし、天皇陛下の前でも公言していた。そういう日本の古い心を当たり前のように誰もが前提としていた世間はいまや任侠の世界にも師弟の世界にも無くなって久しい。
キャッチボールをしなくなった大人みたいに、世間から情緒の基本が抜けて情けない。情緒は理屈で説明できないが、きっちり線が引けないことを避けていると、髪の毛が抜けるように哀れな姿に枯れてゆくものであろう。目には見えないが。。
若い頃の野球経験者が何も示さなくてもボールさえあれば無言でお互いにキャッチボールができるのも、技術の問題ではなく、まずは染み付いたココロの問題なんだよね。近代化した情緒がスポーツマンシップというものかもしれない。スポーツマンシップがスポーツにしかないと言う今の世間の方が異常社会と思えなければ古い日本の心は戻って来ない。戻って来るはずもないのだが。。
日本の古い心の物語には必ず理屈より情緒が先行していた。義理というものは現代日本人が考えるような単なる利害関係からくる理屈ではない、元々義理と人情を区別して秤にかけることなどできないのが日本の心なのだが、そんな歌が流行りだすのも50年前の日本人の心が利害得失に侵されていたからだろうなどと思う。世間の義理ごとには必ず情緒(悲しみ、怒り、喜び、感謝、なつかしみ)が伴う。世間の義理ごとは世間に満ちたスポーツマンシップだったと考えおけばいい。気持ちのあるなしだったのだから、失われたとしても目には見えない。見えなきゃいいだろうと言うことに日本人は成り果てた。『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)という良書を前にも紹介し宮崎駿も映画にするらしいと聞くが、青春は失われてはじめて、悲しさ、怒り、喜びを知るものである。家族は失われてはじめて感謝となつかしみを本当に知るものである。失われて気づいた先人が書き残したものは古臭くても読んだ方がいい。日本人が大切にしていた市井に生きる者同士のキャッチボール、世間のスポーツマンシップ、情緒化された律法は古臭いと思ってもやってみるといい。形骸化していれば新しい息吹を加えてやり直して見ればいい。失われたとしても目には見えない、誰も抗えない時代の流れに変わらない永遠を求めることが江戸の遺した文化、蕉門の『不易流行』である。
都会では無言でキャッチボールができる大人が羨ましく思えるように、肝胆相照らす輻射する心をもつ大人吉川英治に会えた岡潔が羨ましい。今、私は雑音が多すぎて霧が晴れず、器量もなく、それができないことが非常に寂しいのである。『灰色と青』中に流れる寂寥。。に似ていた。どれだけ背丈が変わるとも 変わらないなにかがありますように。今も、、、今も、、。