公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

正月3日

2011-01-03 11:51:46 | 日本人
晴天に恵まれ、富士山のまぶしい正月となった。
そろそろ今年のビジネスエンジンをかけましょう。
正月の穏やかな休みも終了。昨日だけ運動をしなかった。
ちょっと緩むとすぐに動けなくなるので、何事も気が抜けません。今年のビジネスはおおいに攻めたいと考えています。多少予測の出来ない挑戦でも挑戦してゆきたいと考えています。

 「臨時国会は守りに徹したが通常国会はそうはさせない。 」「やりたいことをやるために」「権力掌握」などとクーデター将軍のような台詞しか吐けない、その思考時代が40年以上遅れている政治家を宰相と大臣官房トップに置いたまま2011年はあけた。

 40年以上政治を勉強してこの程度の首相、しかも身内に対してさえ反権力のコミュニケーション能力では器が小さすぎないか。自分で言い出した消費税増税はどのようにもう一度国民に示すのか。仮に百歩譲って影響の大きさを計算して増税発言を飲み込んできたとしても、再びどうやってどこからだすのか?政治的布石が無い。むしろ社民と組んだりして脳の随まで野党回路(反権力)になっている宰相に消費税増税の指揮ができるのか。
 「非常にアナクロティック(時代錯誤)で、非常にまずい外交だった。今の外交にも傷として残っている」と靖国参拝を批判する仙谷には、中国=支那外交に評価を下す姿勢が無いばかりでなく、相手のいい分を丸呑みして昔の弁当運びよろしく国内に原因があると刀を返して小泉を批判している。支那がなぜ靖国神社を否定するかというと、軍神信仰が日本軍の精神的支柱の象徴だったからだ。外交の問題ではない。支那は日本に対して民族の武装解除を精神の上から求めているのだ。そのような要求を丸呑みする政権は、外交のために憲法に違反することを辞さない政権だ。初代駐日英国総領事サー・ラザフォード・オールコックは幕府の禁止に対し富士山に登ることを強行した。それは植民地主義のセオリーともいえる、原住民族が神聖視するものを蹂躙してみせることが必要なのだ。精神的武装解除こそが見えない支配への第一歩ということを忘れてはならない。

 日本は敗戦と恭順の永久化で、今ダブルでおかしくなった國。政治だけの問題だったら選挙制度を是正した後で治しようもあるが。。
 このような反日的政府の国債の脇が甘い事を見越して日本国債がいよいよ料理される。ヘッジファンドを過大に評価する必要は無いが、今のままの日銀信用に依存した国債の金利上昇抑制など信用の薄皮一枚で踏み抜ける状況にある。
 引き金を引くためには日銀の信用低下に直結する<小さな出来事>があれば良い。日銀の信用低下は、円の価値の大幅な変動の連想につながってゆく。債券市場に心停止前の不整脈くらいは起きうる。ユーロと同じように何度か正常に戻ることも織り込まれている。なぜなら、心停止より不整脈の方が儲かる。心臓も頭もリスクに満ちている。掛け金コストの高い<まじない保険(CDS)>に加入するぐらいしか対策は無い。
CDSのプレミアムを単純化して数式に表すと
d(1−r)=s(1−d)

s:1年間のCDSプレミアム、d:1年デフォルト確率、r:デフォルトした際の回収率
と表せる。左項は期待損失率、右項は期待収益率といえる。大切なことは社会全体の期待損失率と期待収益率は同一期間で無限試行の結果均衡する運動をしているということだ。
 それにもかかわらず、財政不安から子供手当やベーシックインカム論が根強い。<不公平是正>はおかしくなったこの國の飛び道具になるだろう。不公平感は末期の政体が制度破壊から国家分裂へと向かうときの飛び道具の常道と言っていい。生活第一という小沢スローガンは公平という名目の下の制度破壊へと進む途上にある。先の不整脈と連動して大幅な国家財政のコストカット(官僚機構の簡素化、公共事業の削減)を選ばざる得なくなる。ベーシックインカム論は経済政策論では評価されないが、この危機で注目を浴びるイデオロギーに昇格するだろう。

 以上は一つの可能性に過ぎないが、どのような政治を選ぶとしても、壊滅的インフレ後の着地点は、国家財政と決済信用の回復しかない。 《このころはインフレになると予想していたが、実態はもっと深刻な景気循環の死に陥っていた》
 
大君の都

 「長い経験からして、わたしはあえて、一般に日本人は清潔な国民で、人目を恐れずたびたびからだを洗い(はだかでいても別に非難されることはない)、身につけているものはわずかで、風通しのよい家に住み、その家は広くて風通しのよい街路に面し、そしてまたその街路には、不快なものは何物もおくことを許されない、というふうにいうことをはばからない。すべて清潔ということにかけては、日本人は他の東洋民族より大いにまさっており、とくに中国人にはまさっている。中国人の街路といえば、見る目と嗅ぐ鼻をもっている人ならだれでも、悪寒を感じないわけにはゆかない。 (上巻, p. 288)」

私は私一個として基督が私達に遺して行った生活をかく考えることはどうしても出来ない。 基督は与えることを苦痛とするような愛の貧乏人では決してなかったのだ。 基督は私達を既に彼の中に奪ってしまったのだ。 有島武郎『惜みなく愛は奪う』より引用
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