トドの小部屋

写真付き日記帳です。旅行記、本や美術展の紹介、俳句など好きなことをつれづれに。お気軽にどうぞ。

銀河鉄道の父

2018-07-30 00:49:33 | 
門井慶喜さんの「銀河鉄道の父」を読みました。宮澤賢治の父親の政次郎の視点から描かれた本です。小説ですから、細部の描写には脚色もあるでしょうが、かなり事実に基づいていると思います。賢治が7歳の時に赤痢にかかり入院したとき、政次郎はつきっきりで看病し、赤痢が伝染し大腸カタルになり、生涯その後遺症に苦しんだ。後年、中学生だった賢治が、腸チフスにかかったときも、政次郎は看病して腸チフスに伝染した。政次郎は、成績優秀だったにもかかわらず、商人に学問はいらないと進学を父から反対され、小学校卒業後、父親に従って家業の質屋、古着屋に専念し、ずっと一家の生活を支えた。しかし、賢治に盛岡中学への進学を許し、質屋を嫌う賢治にはさらに盛岡高等農林学校への進学を許した。また、この小説は、賢治をめぐる家族の物語でもあり、賢治にとって大切な二つ違いの妹トシ、賢治を敬愛していた八歳違いの弟清六のことなども、詳しく描かれていました。政次郎が浄土真宗を深く信仰していたのに対し、賢治は日蓮宗に傾倒し、親子で宗教のことで議論しあったことも政次郎には楽しかった。トシは東京の日本女子大に進学したが卒業間際に病を得て花巻にもどった。トシは成績が極めて優秀だったため、見込点で卒業を許可された。自宅療養後、小康を得て、いっとき母校の盛岡高等女学校で教師をつとめた。しかし、結核にたおれて職を辞した頃、賢治も群立稗貫農学校で教職についた。賢治が就職して政次郎は肩の荷をおろしたのだったが、24歳でトシが亡くなった後、賢治は教師をやめた。4年余りの勤務だった。賢治は家業をつぐことなく独立し、一人で畑をやり、自給自足の生活をした。父からの援助は受けず、菜食主義者となった。トシにすすめられた童話や詩の創作は続けていたが、自らも農民になり、口先だけでない農民の指導をし、無料で肥料相談にも応じた。粗食を極めた重労働の日々により、健康をそこねた賢治は、37歳で肺結核で亡くなった。弟の清六は、賢治の嫌った質屋をやめてラジオや自動車部品などに商売変えをし、宮沢商会を繁盛させた。しかも、賢治から託された兄の原稿を大切に保管し、その出版に尽力した。賢治の死後、草野心平などの後押しを受けて、ようやく宮澤賢治は全国に知られる作家になったのだった。宮澤賢治をめぐる温かい家族の物語でした。
コメント (2)
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