約600年の伝統を誇り沖縄を代表する楽器、三線。「家宝」として受け継がれてきた三線の展示会が始まりました。
2月5日から県立博物館・美術館で始まった「沖縄が誇る家宝の三線展」。家々で「家宝」として受け継がれてきた三線をはじめ、関連資料など136点が展示されています。
この中には琉球王国時代に製作されたものもあり、胴の部分が1825年に作られた三線や「志堅原比屋」という三線は棹の部分が作られたのがなんと330年前。現存する最古の三線と言われています。
初日の5日は学芸員らによる解説会も行われ、朝から多くの人が訪れ、沖縄の歴史や文化を象徴する三線一つひとつに見入っていました。
この展示会は3月10日まで開かれています。
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329年前の三線 志堅原比屋(しけんばるひや) 年代が確認できる最古の三線
まず、『球陽』(きゅうよう)は、1743年から1745年にかけて琉球王国の正史として編纂された歴史書である。
その歴史書「球陽」が記録する人物「志堅原比屋(しけんばるひや)」が使ったとされる329年前の三線を沖縄コレクター友の会の翁長良明さん(69)=那覇市=がこのほど入手した。
県立博物館・美術館の学芸員らが23日に現物を確認し、棹(さお)の部分は当時のものと判断した。
来年2月開かれる同館の企画展でも展示する予定だ。
棹の部分には西暦で1689年に相当する「康熙28年」や作り手の名前とみられる「真壁里之子ウチ」「志堅原比屋求之」などが刻まれている。
胴などその他の部分は張り替えなど手が加えられているとみられる。
「球陽」などの資料によると、志堅原比屋は南風原間切宮平村へ行って三線を弾いたとある。
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南風原町(はえばる)の宮平(みやひら)は、私の自宅から10分程度で行けるところに、今もちゃんとある。
数日前に「ぬちとぅい三線 ハナンダ三線」の話を掲載しましたが、
まさか、この志堅原比屋三線もハナンダ三線も同じ玉城(たまぐすく)と関係があることが判り、びっくりしました。
当初、「しけんばるひや」?と聞いたとき、なんじゃ? この読み方は! と思いました。
そこで調べたら、志堅原 比屋 であり、姓+名、あるいは、地名+名前だろうということが判りました。
沖縄県民の名前は地名に由来するのが多いので、志堅原もそうだと思い調べたら、なんと玉城だったのです。
※玉城志堅原はこちらを参照 備考:ハナンダ三線は玉城糸数村の青年に寸借された。
さて、その志堅原比屋の三線ですが、以下のエピソードが残されています。
面白いので、こちらでも紹介したいと思います。
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昔、志堅原の比屋という三線弾きの遊女がいて、南風原(はえばる)の宮平(みやひら)の少年と三線を弾いて一日中遊んだ。
村の照屋という者が比屋の持っている三線が欲しくなって売ってくれと頼んだが比屋にとっても愛用のものであったので断った。
しかし、照屋がしつこく頼むのだから比屋はしかたなく安くで売った。
その後比屋は病気になり偶然、宮平で死んでしまったが、幽霊となってたびたび姿を現した。
3年ばかり経って、ある夜、照屋と比屋は道で逢った。
比屋は照屋に三線を見せてくれと頼んだので、照屋は比屋を自分の家に連れて行ったら、門まで来ると比屋は急に風になって飛んで行ってしまった。
照屋は比屋の遺念が残るのを恐れて三線を弾いて聞かせたら、その後比屋は2度と現れなかったという。
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この三線は、その後どういう経緯をたどったのかは不明ですが、
昭和62年8月24日の三線鑑賞会に突然出品され、その存在が確認され、現在に至っております。
以上
宜保榮治郎 著 「三線のはなし」より
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