明日6月5日は雨のようです。 今日出かけます。
湖南 大池寺小堀遠州の作庭を見ます。
堀切になっています。ここの森はささやいているのです。よく見ると地下水がしずくになって落ちる音なんですね。天然の水琴窟です。
見えました。
琵琶湖を象っているそうです。
お寺自体がこの池に浮かんだ感じです。はすが咲いています。
水琴窟がありました。
お庭を見せてもらいます。
赤が映えています。
一幅の絵というところですね。
茶室は青。
樹齢350年だそうです。
こんにゃく? まむしぐさ?
見送ってもらいます。
屋根には火除けのため水にちなむ物を揚げるようですが、こんなに直接的な物はどうなんでしょう? 珍しい?
大池寺を後にします。
永源寺へは国道421号を行きます。八風(はっぷう)街道という古くからの街道に沿うようです。今も通称となっているようです。
また、街道の八風峠は、徒歩越えであり、このルート上には無いようです。
道すがら甲津畑に向かいます。
甲津畑は、千草越えの近江側の入り口になるところです。
寄り道です。良く言えば探究心旺盛、正直に言えばやじうま心がひんひん言ってききません。
この山なみのどこかを越えるんでしょう。 田植えも終わってのどかです。
だけどナビの案内でこのまま進んだら、道が細くなってしまいました。 山の口のところはコーンで半分閉ざされています。 ・・・不安の香りいっぱいです・・・ヾ(´゜Д゜`;)ゝ
田植え機洗っていたおっちゃんに聞いてみます。
「甲津畑に行きたいんですが・・・?」
「この道で行けるには行けるんだけど・・・ね~ 信号右に行った方がいいよ。」
それって戻りだけど、信号なんか近くにあったかな・・・と、どうにか行き着きます。
城・・といっても砦みたいなのの跡があるとのことですが、まるでわかりません。
いかにも岩魚とかいそうな渓谷までも行ってみたのですが・・・ この山がルートでしょう。きっと。
千草越え。 織田信長は、”顔を貸せ”と再三京に呼びつけてもこれに応じない朝倉氏を討つため、出兵します。
しかし、妹の嫁ぎ先である浅井氏が朝倉との同盟関係から出兵、織田軍は挟撃を受けることとなり、必死で京に逃げ帰ります。
その後、本拠地岐阜に帰還しますが、その際に通ったのが鈴鹿の峰々を越えるルートの一つ、千草越えです。
ここで事件が起きます。
善住坊という鉄砲名人が、信長を狙撃したというものです。
袖をかすめただけで、しくじりました。歴史にifは無いとは言うものの、善住坊が成功していたら現在の歴史の登場人物ががらりと変わってしまうような劇的な大事件だったでしょう。
信長亡き後はだれが? 武田信玄が天下を取ったとしたらこれも問題、彼もほどなく病死します。
信玄の天下を前提とすると家康も滅んでいるかもしれません。
本能寺では、信長後継も同時に死亡し、その謀反人を討ったということで秀吉が一躍出てきましたが、テロリスト一人を討ち取ったとしてもその栄誉は無いでしょう。第一、後継者が存在します。
後継者(信忠)が成功すれば、秀吉は出番さえ失ってしまったかもしれません。
逆に織田政権にとっては政権長期化の端緒とも・・、一方まだ群雄も健在、戦国の終わりが見えなくなってしまったかも・・・
所詮私たちは過ぎた事実を今知るだけのことなんで、後世への影響を知りえない以上、大事件かどうかはそのときはわかりませんね。
寄り道なんで先へ進みます。
永源寺到着です。
きれいな水です。 飲めそうです。
・・・建物は便所ですけど。 いまどき”便所”? ってそう書いてあります。
山水画のモチーフのようです。
新緑がいいです。 段数もけっこうあります。
こんにちわ~
まだ眠そうです。
いいですね・・・ 大きさもあります。
門からの眺めがまるで絵のようです。
枯山水を曲がると方丈でした。
”こんにゃくのさしみも少し梅の花” どんな句なんでしょうか?
緑がまぶしい・・
草を抜いて花は残す。 手入れもむずかしいんでしょうね。
これもひとつの”禅”なんでしょう・・・
結構山深いです。
食事にします。「ふるさと」というドライブイン風の店でした。
あまり期待してなかったんですが、うんうん・・てんぷらうみゃい・・・
これで帰路ですが、八風街道の石榑(いしぐれ)峠道路が開通しているということなので通ってみることにします。
またもうまがひんひん言います。
今年の3月26日開通、国道建設事務所のホームページに取材の申し込みは3月11日までとなっています。
もともと大きなニュースにはならないと思いますが、それにしてもこの時期ではね・・・
国道421号は”酷道”として超有名らしいです。そこを通らなくても三重に抜けられるようになったということです。そういえば永源寺にも東海ナンバーが多かったです。
三重、名古屋、岐阜・・・鈴鹿というのもあるんですね・・・
酷道部分も残るということで多少覚悟して行きましたが、1.5車線が少しあるだけで渓谷美を眺めながらの快適な道路でした。 一人なんで写真はありません。 ライダーやチャリダーが多いですね。
時折、にょろにょろ道路が見えます。 対向車に怯えながら走る幅ですね・・・
これだと走れません。
かつての近江商人だったらどう思うでしょう?
他国の商人が”この山(鈴鹿山脈)さえなけりゃ商売楽なのにな” と言ったら、”この山があるからこそ、われわれ山越え商人が商売できる。ありがたいことだ。” と言ったそうな。
便利になったものです。
帰路は、桑名まで抜けて東名阪、新名神と走りました。 しかし、まー深い山に道を通したもんだ! と関心しました。
永源寺の新緑