gooブログを書き始めて、20年は超えたでしょうか。途中、私の過ちか、どうかがはっきりしませんが、10年以上のものがきれいさっぱり消えてしまったのです。そこでもうやめよう!とも思ったのですが、数少ない読者の方からのお励ましに豚が木に登り、今日に至っています。
gooブログでは、事務局の方のご努力で、投稿者に1年前の投稿文を知らせてくださるのです。自分が書いたものなのに、すっかり忘れていることもあり、、こんなことを考えていたのか、生意気にも書いていること!!などと思いながら読むのはまた楽しいことです。ありがとうございます。
昨日のことだったと思います。いつもの私流の文で、「折々のことば」を種にして書いておりました。
最相葉月さんの「言葉が可哀想で、恐れさえ覚える」が主文に取り上げられていました。
人が発する言葉が、時に耐えがたいほど軽くなっている、とのご感想。その尻馬に乗って、私が算成文を書いているのは笑止のことですが。
人間は、考えるという動作は、言葉で行うものだと思うのです。言葉がなければ考えられないと思うのです。その言葉全体が、どうにも、怖くなるほど軽いとおっしゃるのです。たしかに「すごい」「無茶苦茶」だけでは考えるところまではたどり着けない気がします。
折々のことばと匹敵するほど、よく見るテレビ番組に「徹子の部屋」があります。お名前を忘れましたが、女優さんでした。最近お子様を出産なされ、子育てに奮闘。周囲の理解もあって新しく女優の道を再び歩み始めたと言っておられました。
その方がつくづく言っておられました。「子供が、びっくりするほどのスピードで、言葉を覚えるのです。私が自分の言葉に気をつけていないと、ついつい若い方々の今風言葉が混じってしまうのです。子供はこれを本当に素早く取り込みます。私は、半分出掛かった口を押さえるようにして話すことたびたびです」と。
そうなんですよね。若者中心で、流行のものが蔓延するのは仕方がないともいえるし、もしかしたら、言葉の発展の一過程かも知れないのです。でもそれに年長のものがへつらって、自分の言葉を捨ててしまって迎合してはいけないと思うのです。時代時代に生きた言葉があるのは当然のこと。自分の言葉を発して日本語を守りましょうよ。お若い方も、流行に乗ることばかりが、かっこいいのではなく、時には怒りさえ買うこともあるのだと知って、考えてみてください。