おせっちゃんの今日2

こちらでお仲間入りいたします。
よろしくお願いいたします

まあ、何か月ぶりの渋谷

2022-03-31 16:30:37 | いろいろ

妹のらい太と久しぶりに会おうということになって、午後渋谷まで出かけました。まあ、パスモのあり所も忘れ、ましてや残金がいくら入っているのかなどすべて忘れ去るほど電車にも乗らなかったのです。ウオーキングの公園と、最寄りの商店街と、週1のパソコン教室とごくごく限られた範囲で過ごしてしまいました。

「1時、ハチ公」の約束。そこはさして変りばえはしないけれど、あとは駅周辺も「ここはどこ?」状態の婆さん二人。なんだか良く分からないビルに入り、馬鹿と煙は高いところを好むとばかりエレベーターで上昇、お茶兼昼食。「分からんねえ。迷子になるよ」。

考えてみれば、この前渋谷に出たのは11月末、友人にお歳暮を贈るため、山口県のアンテナショップがある京橋迄出かけた時、渋谷を通ったのでした。無事歳暮を送り出し、帰宅してそのことをブログに書きました。すぐさま”娘おまり”から大目玉のメール。

「婆さんがウロウロ都心に出かけないの!コロナに取りつかれたらどうするの!!白銀(山口名産の宮内庁ご用達)なら、おまりに頼べばいいでしょ!!出来立てをすぐ送り出してあげるでしょ!!何のために婆さんが出かけるの!!」。ごもっともではあるけれども、白銀には同じ名産の外郎も同送したかったし、全く違う用事もあったのよ。大丈夫マスクばっちり、同行者なし。会話も最低限。まあ許したまえ、平謝りのおせっちゃんでした。それ以来4か月、体調を崩した夫とお家籠りを続けたのでした。

そのためにそれほどの不自由も感じない私なのですが。

ビルの12階で食べながら、飲みながらおしゃべり1時間。その後、スニーカーを買うという私に付き合ってくれて、少々高い靴を買いました。「あら、一生ものかもね」と笑ったことでした。エアクッションもので、かっこいいんだよ~

また会おうね。少しは気が晴れるでしょ。妹さまさま。


ワンちゃん大集合

2022-03-30 13:46:01 | いろいろ

ウオーキングのホームグランドとしている世田谷区立羽根木公園は家から近くありがたく通っています。ウオーキングの年配者、ランニングの若者、ストレッチに汗を流す人、犬の散歩のパパママ、保育園の可愛い子供たちのお散歩、多くの人々が集まります。今日アップする下の写真は毎日のように通ってくるワンちゃんが、集まったところです。

ワンちゃんに声をかけて仲よくなる人、パパママを通じてワンちゃんも仲良くなる場合、にぎやかな集合です。

犬は飼いませんが、長年顔を見合わせていると仲良しもできます。ワンちゃんたちも匂いを覚えてくれたようです。そうして輪を広げた友人二人が気に掛かっています。一人は背も高く、スタイルのいい素敵なおじさまです。彼はそれこそ毎日欠かさず来て、午前中過ごしていかれるようです。自分流の体操はなさるようですが、歩いたり走ったりはなさいません。聞くところによると肺の病気をなさって、運動は禁止の方のようです。この方がワンちゃん好き。ワンちゃんたちは争っておじちゃんの所に集まり、遊んでもらったり、マッサージをしてもらったり。すっかりなついているのです。
そのおじちゃんが、悪いことは重なるもので、今度は癌が見つかったとか。昨年末から抗がん剤を打つため、病院を出たり入ったりしていらっしゃるとのこと。
年末姿が見えなくなった時にはワンちゃんたち「おじちゃんロス」でしょんぼりしてしまったのでした。4月、暖かくなったらいらっしゃるかなあ、とみんなが待っているのです。ワンちゃんたちも。

もう一人、おじいさま。脳梗塞の後遺症でしょうか、半身がご不自由のようです。それでも、雨の日は傘をさしてでも通うくらい、毎日休まずウオーキングをなさっていました。同じウオーキングの私はおじい様を追い抜いて周回路を回ることになります。初めは追い抜かれるのは気分がお悪いかなあ、と挨拶もせず追い抜いていましたが、あるときおもいきって「おはようございます、お先に」と声をかけました。思いもかけぬ明るい声で、挨拶を返してくださったのです。それから5年も6年もたったでしょうか。

冬の寒さを避けていらっしゃるのかしらと、いい方に解釈していましたが、春めいても一向にお姿が見えません。もしかして・・・と気に掛かっています。私も含めてそんな日が来るのも考えられないことではありません。お二人、ご無事を祈っています。あたたかくなりました、そろそろお出かけくださいませんか、待ってます。「おかえりなさ~い」が言いたいです。


言葉…中村哲さん。宮本武蔵。

2022-03-29 13:45:15 | 言葉

1週間前の朝日新聞の記事だったでしょうか。アフガニスタンで支援に尽くした医師、中村哲氏のことが記事になっていました。氏の、活動を追って、新たなDVDが発売されたのだと言います。テーマは「仕事」「働く」。
氏は医師でありながら、現地の人とともに汗を流し、重機を動かし、一番大切な水の確保に尽くしたのでした。

「自分が何のために生きているかと、問うことは徒労である。人は人のために働いて支え合い、他人のために死ぬ」と言っている。撮影と監督を務めた、谷津賢二さんは「中村さんは他者のために生き、働いた利他の人だった。若い世代、特にこれから社会に出る人、社会んでたものの「働く」ことの意味に迷っている人に、中村さんの仕事を見てほしい」と話している。

今日はこれを書こうと思いながら、朝刊に目を通しました。偶然でしょうか、SOMPOホールディングス株式会社の1ページ広告が折り込まれていました。強くなりたい、強くなりたい。少年は竹刀を振り続けました。1冊の本に出合いました。宮本武蔵の「独行道」。思わぬ言葉に出会った。

「身を浅く思ひ、世を深く思ふ」

自分のことだけを考えていては真の強さを手にすることはできない。大切なのは誰かの為に努力する精神なのだ。


僕は泣いちっち

2022-03-28 13:52:15 | 時の流れ

好きなテレビ番組。
金曜日、BS7チャンネル、夜8時から。武田鉄矢が司会を務める「昭和は輝いていた」。
時の流れの中で、流行った歌、それを時代の流れとともに解説する。曲の成り立ち、詩に歌われたそれぞれの時代、そして懐かしい歌唱、なかなか面白い企画です。

25日には、「僕は泣いちっち」が取り上げられていました。浜口倉之助の作詞作曲。

確か私が大学生の頃はやった歌です。青春真っただ中の私の記憶にしっかり刻まれた歌です。
卒業式が終わり、1年先輩の人はそれぞれの任地(教師になる人が多かった)にたって行きました。国鉄の駅で見送って、そのまま山登りを始めてのでした。通学の山陽本線から毎日のように見る沿線の山。頂上が二等辺三角形の半分が割とられたように垂直な崖になっている山でした。一度登りたいね、と言いながらそれまで実行しなかったのを実現していたのです。
国文専攻の男女5・6人ワイワイワイワイおしゃべりしながら登ります。梺では国鉄の列車が線路を行きます。発って行った先輩を思い、皆が歌ったのが「僕は泣いちっち」でした。歌がいつの間にか、国文の教授の物まねになりました。「泣いちっち」を文法的に説明せよ、「ちっちはどう説明するかね」などと。文法も何も説明仕様がありませんよね。後にオノマトペという言葉で日本語には数多いと聞いたような気がします。

25日の、時の流れでは、こんなコメントが出てきました。

この歌の頃、日本人の泣くという行動が変わってきたのですよね。戦中の「泣いてはいけない」「男は泣かない」「女々しい」などの固定観念で、ぐっとかみしめていた泣くという動作が、解放されるようになったのだと。
女には許されても、男が泣いてはみっともない。ところがこの歌は僕が泣くのです。

この頃からぐっと我慢の涙が解禁になったのでしょうか。ちかごろの日本人の良く泣くこと泣くこと。

これはこれで、自然で美しいのでしょうか。

昨日、大相撲は千秋楽を迎えました。今度こそ優勝かの高安敗れ、決定戦にもつれ込む。若隆景、膝が折れ曲がって落ちるかと思う姿勢で持ちこたえ、新関脇・初優勝をものにしました。双葉山以来の優勝とのこと。

優勝インタビュー。涙はなかった。ひたすらに下から押し上げる相撲を取ることだけを心掛けたのだそうです。
やはり男らしい!!と拍手する私がいました。


今夜の風雨が心配

2022-03-26 14:26:04 | 日記

早々と仕舞ってしまった冬物を慌てて引っ張り出す逆戻りの気温にも負けず、桜は満開と言ってもいいほど咲き誇りました。残念なのは、今日は花曇りという穏やかな曇りではなく、予報されているのは春の嵐だという心配な暗い空です。風は南風、気温は高いのですが。まだ、平井手間がないので、嵐にも負けずしっかり残ってくれるといいのですが。

近くの公園の桜2枚載せます。

2枚目は、ソメイヨシノの中で、珍しく山桜です。自分でも不思議なのですが、年とともに美しいと感じる神経が変化しています。子どもの頃、一番美しいと思ったのは、今では少ししつこいと思う八重桜でした。その好みが、パッと咲くソメイヨシノに移り、今、いち早く葉を出し、その瑞々しい色と花の色を微妙に対峙させる山桜が好きになってきています。
年とともに美意識が高まったのか、枯渇してきたのか。

桜の季節、満開の盛りに和歌と父を思い出します。
今日のように折角満開になった桜に、怪しい天気、という日だったでしょうか。子どもの私が偉ぶって言ったのでした。
「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」
父は非常に「縁起」を気にする人でした。
「おせっちゃん、そねえなことを言うもんじゃあない。吉相(吉左右かな?)が悪い」と本気で怒っていました。親に口答えは厳禁の時代でした。折角知識を披露したのにと思ったけれど口をつぐみました。ここでとやかく言うと悪くすると大目玉を食らうことになります。

後に、この和歌はあの親鸞が詠んだ歌とされているのだと知ったのです。親鸞9歳、仏門に入る決心をされ、天台座主を訪ねました。すでに夜になっていたので、「あす得度の式をしてあげよう」と言われました。親鸞は「明日までは待てません」とこの和歌を詠まれたのだそうです。自分の命を桜の花に重ねたひたすらの心を詠まれたものなのですね。