おせっちゃんの今日2

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覚悟は・・・柳葉敏郎

2021-05-31 13:53:08 | 徹子の部屋出演者

メモし忘れて、いつの番組だったか忘れてしまいましたが、徹子の部屋に柳葉敏郎がゲストとして招かれていました。知ってはいますけれども今までそれほど意識して見たことのない俳優さんでした。今これを書く時も、ネットでちゃんと間違えなく名前を書かなければと確めたくらいです。柳葉さん、ごめんなさい。

おはなしの中で印象的だったこと、おばあさまの言葉です。

この道に入ったいきさつなども話されましたけれど、それほど詳しくはありませんでした。努力に努力を重ねて成功、というほどの道のりの話もありませんでした。私の受けた感じからは「何になるにしてもやっぱり東京だ」とさして目的もないまま上京して、なんとなく人とのつながりを得て、進んできたというような印象でした。勿論それなりの精進、幸運もあったとは思うのですが、それはあまり強調しない人のようでした。

高校を卒業してからでしたかしら、上京を決行しました。父親は、母と別居ののち、彼が3歳の時亡くなっていました。女手で育ててくれた母は上京には反対でしたが、おばあさまが後押しをしてくださったのだそうです。
「この子は今まで自分がこう進みたいと自分できちんと決めたことはなかったではないか、初めての大決心なのだから、やらせてみよう」ということだったのです。

いよいよ玄関を出て行くとき、おばあさまがおっしゃったのだそうです。
「お前、分っているのだろうね、自分が決めて、自分の意志で今玄関を出て行くんじゃぞ。今度帰ってきて、この玄関から家に入るのはどういう時か、覚悟の上だろうね」
とおっしゃったのだそうです。覚悟などというきちんとした気持ちはありませんでした。祖母の言葉で目が覚め、自分の進む道を歩まなければならないことを思い定めたのだそうです。東京で様々なことがあったけれど、その度に、祖母の送りだす時の厳しい言葉に励まされたのだそうです。

素晴らしいはなむけの言葉でしたね。

 


食べさせられる恐怖

2021-05-29 13:49:37 | 時の流れ

金曜日夕方、食事が終わるころから「ザワつく金曜日」が始まります。決して優良な番組でもなく、品のいい番組でもありません。でも私は笑いながら見るのを楽しみにしているのです。ちさ子・一茂・良純、それに司会者が入り面白可笑しく掛け合いをしながら進むのが、私自身には欠けている弾む会話が楽しいのです。食べ終わった食器を流しまで下げて、洗うのは後回しにしてひと時馬鹿笑いをするのです。

28日、こんな場面がありました。テレビ番組の中で私が一番嫌いな場面です。大食いです。他の番組なら、素早くチャンネルを変えるところなのですが、ここでは一瞬我慢です。すぐに、三人の掛け合い話が始まるからです。
その日は良純さんが話の中心です。

彼はこのような大量の食事を前にすると暗~い気持ちになるのだそうです。石原軍団では撮影が終わったところでみんなで食事をする会がよく催されました。裕次郎を始め先輩格の人が、奢りと言って大量のご馳走を用意し、目下のものに「食べろ、遠慮はいらないぞ」と勧めるのだそうです。ところが食べきれる量ではなく、目下のものはもう死に物狂いになるのだそうです。良純は一番下っ端。到底食べられない量が目の前に積みあがる、隙を見てロッカーに隠したこともあるのだそうです。
これがトラウマとなり、大量な食事を見ると暗い気持ちになるのだそうです。

う~ん、時は流れましたねえ。わたしは良純さんの「暗~い気持ちになる」を聞いた時、こうした食べさせられる恐怖など頭の片隅にも浮かびませんでした。考えたのは、飢えた子供の大きな目でした。ユニセフの援助でやっと食いつなぐアフリカの子供です。
今ではアフリカまで想像をとばさなくても、日本で食べられない子どもが大勢いるというではありませんか。無理やり食べさせられる恐怖、などと傲慢です。

子どもだけではありませんでしたよ。おせっちゃんの子どもの頃は自身がそれに近かったのです。弁当箱には詰められない雑炊、自分たちで畑を耕してやっと収穫したサツマイモが1個、ごろんとお皿に載っているのが夕食だったことも。思い出しました。そんな時代のご馳走、「ぜんざい」などできようはずがありません。甘いものには飢えていました。母が作ってくれたのは、畑からとれたサツマイモをきんとん状につぶし、湯を足し、どろりとした液体に田んぼで取れた小麦の粉の団子を浮かべた「いもぜんざい」でした。
「おいしいね」「あまいね」。満足したものです。砂糖はない時代です。甘いとは言えないものだったに違いありません。

三人の掛け合い会話でも、ぬぐえない腹立たしさが、笑いながらでしたが私の気持ちの中で膨らみました。
番組制作者も、それに加わっている三人も、微塵も暗さや影はなく、あっけらかんと自然に話し笑っていました。こういう内容を腹立たしく思う人間がいるという事さえ気が付いていないのでしょうね。


おしゃべりは役に立つ

2021-05-28 13:46:15 | コロナウイルス

お家籠り生活は心がけるけれどこれが収束させる決め手にはならないとあきらめモードです。残るはワクチンだと最後の望みをかけています。
来月2日に予約が取れています。打てば直ちに安全地帯というわけにはいかないようですがひとまず、激戦区は脱出できるのでしょうか。

公園のウオーキングは、今の私にはリハビリとして必要なものと、毎日午前中に小1時間歩きます。怠け婆さんの免罪符的な感がありますが。

これを続けているとお友達というには遠いのですが、顔見知りという人が何人かできています。マスク越しに挨拶する程度ですが、最近はコロナワクチン情報が交わされます。ちょっと前は、予約が取れたか否か。どうして厳しい壁を乗り越えたか。何月何日か。が話題でした。

ここ2・3日はいち早く打ってもらった人の副作用情報がもたらされます。それによると私がテレビから得た頻度より多く、起こっているような気がします。アナフラキシー(あ、間違っていますか)というほどの酷いものではないけれど、発熱(39度とか、かなり高熱)、頭痛、腕の痛み(腫れて腕が上がらない)などを経験したという人が多い。
おばさん、おばあさんは、テレビ解説をよく見ているのか大体の人が「抗体が確実にできている証拠だから想定内だけれど」と冷静です。
そして次におっしゃるのが「夜中などに高熱が出ると解熱剤は・・・とあわてるわよ。かかりつけ医から前もってもらっておいたほうがいいわよ」という御注意です。

なるほどなるほどと、今日先ほど医者に行ってきました。カロナール錠を7錠出してくれました。これでよし。夫とは二人で倒れていてもと時差をつけております。ワクチンをなるべく軽く受け入れるべく、体調に気をつけねばと言い合っています。


励ましの言葉

2021-05-27 16:16:16 | 言葉

来月には83歳になります。病を得るまでは体力には自信がありました。医者にもかかったことがほとんどない私でした。ところが急に衰えてきました。救急車に運び込まれ、5週間入院、退院してからも痛みに耐える毎日。リハビリに3年かけて、今は日常生活はこなしているものの、以前の生活には戻れません。リハビリを指導してくださった若い先生は「おせっちゃん、十分元気印ですよ」と言ってくださいましたが、自分を労わり労わりの暮しです。

そうした私はテレビ、新聞、読んだ本、などの中に、自分を励ます言葉を見つけては、頑張れ頑張れと自らを元気づけています。今日は最近見つけた言葉

★ 100歳でコロナにかかって、生還した女性高齢者
「私は、これからの時間を余生だとは思いません。前へ前へ進みます」。

★ 内田也哉子さんの言葉(昨日の朝日新聞広告特集・対談で)

「子育てで大事にしてきたことは?」
「ままならぬ時は、母がよく言っていた言葉を思う。『水のような人になりなさい』」
水は器によって形を変える。本質は変わらない。やさしさとしなやかさと兼ね備えた人に、私も子供もなりたい」。

「落ち込みから立ち直る方法は?」
「母は何かに躓いた時、『ありがたい有難い、これがあったからこそ次に来る幸せの濃度を強く感じられる』と言っていました」

★ 先日、徹子の部屋に出演していた女性歌手の方。

「女手一つで育ててくださったお母様の教えで特に大事にしていることは?」
「母は夜寝る前に『今日はいい日だった』と言ってからおやすみなさい」と言っていました。辛いと思った日でも、お昼に食べたお弁当、美味しかった!!今日もいい日!!。
朝起きて「わ~い。きれいな青空。今日もいい日!!」元気が出ます。


[校則]で思い出すこといろいろ

2021-05-26 13:32:52 | いろいろ

昨日、大呂遼平君の記事の最後で、校則にとらわれず、遼平君の意思を真っ直ぐ育てた先生方など大人の柔軟さを喜ばしいことと結びました。
私も、言うことが恥ずかしいくらいの務めでしたが、3年間私立の女子高に勤めました。60年も前の話です。今からは考えられないくらい、校則は厳しく・・・というより頑迷に・・・守らせていました。
制服のスカート丈は膝をついて中腰で座って膝が半分みえるほど、とか
前髪は眉が隠れないほど、とか。
今も話題になるのが、男女交際。絶対悪とされていました。「不純異性交際厳禁」というのでした。

大学出たてのプロ意識もない私は、馬鹿らしいと内心反発もしたけれど、何の意見を申し出ることはせず、守らせるべく取り締まっていました。あの当時の生徒さんには謝りたくなります。

息子Kが大学4年生の夏休みのことでしたかしら。我が家にアメリカの女子高校生を2・3週間ホームステイさせたことがありました。らい太が引き受けていたのですが、癌が見つかり、急遽手術をしなければならないことになり入院、代わりに我が家で引き取ったのでした。エイミーという子でしたが、日本の高校を経験させるということで、Kの出身校、らい太の所の二人の娘が通っている日比谷高校に通学していました。ある時
「日本の高校の制服についてどう思うか」と訊いてみました。内心自主性がないとか、窮屈だとか批判的な意見かなと思っていましたら「コンビニエンス」と躊躇なく答えました。洋服選びに苦労しなくてよく便利だというのです。
自由を与えられている者は、かえって素直によさを認めるのかな、と思ったことでした。

ごく最近の「声」の欄に、こんな見方があるのだと新たな思いにさせられた声がありました。徳島県の三原さんとおっしゃる78歳の男性の声です。

昭和20年代。遠足には給食のパンが現地で配られた。自宅から米飯を持ってくることは禁じられた。
思うに、コメ不足で、米飯を持ってこられない子に配慮したものだったのだろう。
当時は食糧不足。米飯を持ってこられる経済的に恵まれた子は、校則で取り締まり、貧しい子に合わせて我慢してもらったのだと思う。
時代は変わって現在。スマホを持てる子と持てない子、持たせられない子の方に合わせてもらう。
こうした校則で、弱いものも胸が張れる。校則はこういう風に使ってほしい。