おせっちゃんの今日2

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森鴎外のまんじゅう茶漬け

2022-10-31 14:04:42 | いろいろ

10月21日、朝日新聞夕刊に、森鴎外が取り上げられていました。学生時代一応専攻は国文学だったけれど、鴎外はあまり読んだことのない私です。
この記事には、鴎外の好物、食べ物に対する潔癖症が書かれていました。興味がありましたので記事を切り抜いていましたので、ご紹介します。

先ず、潔癖症から。
「マヨネーズのようなものは食べないほうがいい。ドロドロしたものほど、人の手がかかっているからそれだけ不潔である」(次女 小堀杏奴)
果物も生のままでは食べなかった。梅、杏、水蜜桃、天津桃、を甘く煮たものが食卓に出た。(長女 森 茉莉)

鴎外は本名、森 林太郎。陸軍の軍医。ドイツに留学したこともあった。そこでの好物は焼き芋
「焼いてあるからばい菌は死んで、これくらい安くて、甘いものはない」(鴎外に仕えた人)
「厳密な潔癖症が妥協を許さない。細菌に対する異常なまでの恐怖心がある」(嵐山 光三郎)
「子供に生水を飲ませなかったほど、潔癖症だった」(郷土史家 山岡浩二)

鴎外の好物

刺身の醤油煮・・・生では食べない。食卓で醤油・みりん・酒で整えただし汁にくぐらせて食べた。さながら魚のしゃぶしゃぶ。

まんじゅうのお茶漬け

何の変哲もないお茶づけに見えるが、ご飯の上にあんこ入りのまんじゅうが鎮座している。

この鴎外の記事を読んでいて、父親を思い浮かべました。
甘党でした。酒はたしなみませんでした。好物は甘い甘いおはぎ(牡丹餅)でした。父の誕生日は、畑で採った小豆と田圃で作ったもち米と、母がどうにか手に入れてきた砂糖とで、おはぎ(牡丹餅)を作ったものでした。お茶はかけませんでしたね。歯痛で機嫌の悪い日もあった父で、特別に炊いたやわらかいご飯の上に牡丹餅を置いて、白ご飯まで餡が付くように抑えるようにして、ご満悦で食べていました。

わが家のしゃぶしゃぶ。
いつも行くスーパーに、2・3年前から並び始めた、新顔のお菜があります。
鰤のしゃぶしゃぶです。お刺身より少し薄めに切ったぶりが、ポン酢の小さなパックとセットで売っています。鴎外と同じようにだしを沸き立たせ、野菜を足して、ぶりをしゃぶしゃぶ。ポン酢でいただきます。ぶりが高いのが少々気に入りませんが、美味しいです。


渥美清の矜持

2022-10-29 13:19:49 | 新聞記事から

昨日の、パンダが書いた天声人語のすぐ近くに「折々のことば」はあります。84年、ごく狭い世界で生きてきたおせっちゃんには解説を読んでもその深い主張が分からないことがあるのですが、昨日の言葉は解ったような気がしました。
ご紹介します。

「役者はもの書きではありません。渥美清」

鷲田清一氏の解説がついています。渥美清は「寅さん」役に徹し、執筆や講演はいっさいことわった。簡素な暮らしながら、撮影が始まると、雪駄履きの足元が薄汚れて見えないよう、美容室でペディキュアをしてもらっていた、と。(後略)

おせっちゃん、自分の暮らしでマニキュアはいたずらにやったことがありますが、足の指など構ったことがありません。「へ~え、きれいにしたところで、素足の雪駄履きの指先だよ、たとえその箇所を大写しにしたところで、折角やったぺディキュアの上から美術さんは薄汚れた、埃っぽい指先に仕上げただろうに、と思ったことでした。もしもペディキュアのピカピカの爪が写ったらおかしいじゃないの、とまで。

でも、日本の代表的な映画のシリーズです。渥美清の代表作・・・というより、寅さん=渥美清と言っても過言ではない作品です。渥美清は覚悟を持って臨んでいるはず、と思い直しました。

この世界のことは全く分からないおせっちゃんですが、多分俳優渥美清は寅さん役を外した、俳優渥美清そのものになって、そこから役作りをしていったのだろうと思ったのです。薄汚れた足先を作ってくれる美術の人に、自分の地の足から、寅さんの足にしてもらおうと思ったのか、と考えたのです。

ここ迄深く考えて、一つの役の一つの場面が出来上がっていくとすると、俳優以外のことまでは出来ず断わったのだろうと思えました。


わが家のパンダ話

2022-10-28 13:53:08 | わが家の話

50年前の今日は、上野動物園にパンダが来た日だそうです。日中国交回復を祝って、可愛い親善大使がやってきたのです。その明るい話に、上野に行って一目見るというのがみんなの望みでした。

それはそうと、我が家のパンダの話をしましょう。
我が家の息子Kは小さい時、「カンカン」と呼ばれていました。姉のMaと1歳10か月しか年が離れていませんでしたので、Maが上手くKの名前が呼べなかったのです。それらしき発声が「カンカン」だったので、それがそのまま呼び名になりました。叔父叔母、従姉たち、皆もこれで呼んでいました。今でもかれは「カンカン」です。

夫の兄一家が関西で暮らしていました。私ども、福島から大阪に転勤になり、関西で暮らすことになりました。兄の子ども達(いとこ達)「今日うちにカンカンが来るんだよ」と言いふらしたようです。近所のお友達が目を丸くして「え?パンダが来るの?見たいみたい」と大騒ぎになったのだそうです。

上野は見に行ってもまともに見られる状態ではありませんでした。学校がありますから行くとしたら週末です。何処のお家でもそうなります。行きたい行きたいという子供にいい聞かせて、先延ばしにしていました。そんな時、10月1日が「都民の日」ということになり、学校は祝日休暇になりました。近所のママ友と、都民の日は東京都だけだから、この日は空いてるんじゃあない。行こうよ、ということでパンダ見物デーになったのです。

確かに話に聞いていたよりはゆったりしていました。ところがパンダもゆったりでした。ぐっすり寝ていたのです。少し汚れたぬいぐるみが、ごろんとしているだけです。時々、ほんの少し動くと、「あ、起きたよ、今度は遊ぶかなあ」と子供たちは期待します。しかし、パンダは再び三度、眠りの世界でした。

期待外れに、元気の無くなった子供に、お約束のぬいぐるみを買ってやり、一日が終わったのです。

カンカンは(我が家の)お友だちから、パンダの真似をしたの。どうしておなじなまえなの?などと言われることがあるようでした。その時の彼の言葉。
「おいらの方が、先に生まれたの!パンダの方が真似したの!」

 

今日の朝日新聞、天声人語はパンダがやってきて50年の日ということで、パンダが執筆したことにしてあります。それにこんなことが書かれています。

パンダはもともとは、肉食獣だったんだよ。僕たちの先祖は竹を食べる事に適応して敵の少ない山奥での暮らしを選んだのです。人間も知恵を絞って共存を目指したほうがいいのではありませんか。

みんながあるものを分け合って、工夫しながら、平和に暮らすことはできないのでしょうか。


父からの言葉・・・大竹しのぶ

2022-10-27 16:18:16 | 新聞記事から

ちょっと前の新聞になってしまいましたが、俳優の大竹しのぶさんが、父から聞いた言葉を語っていました。彼女の俳優として生きていく道に大きく影響したようです。
父は高校の数学教師だった。幼い頃から家族7人で囲む食卓で聴く父の話は楽しみだったと言います。家族の食卓から、広い世界が見渡せたとのこと

★ 「魂に皺の寄らない若さを持とう」
最初に言われたのはまだ小学1・2年生のころ。
「ずるい大人にはなりたくない」「美しいものが分かる大人になりたい」
幼い心に深く刻まれた。

★ 「自分にウソをつかない」。これも父の言葉
オーディションに合格して映画デビューした。監督や、脚本家は雲の上の人。でも、どうしてこの場所でこのセリフ?疑問に思ったら黙っておれない私だった。雲の上の人にも臆さず「このセリフ可笑しいと思います」と直接伝えた。

父はしのぶが芸能界という自分には分からない道を歩み始めたことを心配していた。
「しっかり自分を持ってやりなさい」と励ました。そして父は娘の活躍を少し見ただけで亡くなった。

どんな些細なセリフでも、自分を偽らず疑問に目をつぶらず、向き合ってきたと自負している。きっと父の言葉が今の自分を作ってくれたと思う。ふだんは「ま、いいか」という時も多いけれど、仕事に関しては曲げられない。

インタビュアーは「大竹さんに意見を言う人がいなくなりはしませんか」といってみた。
だからそうならないように誰でも意見を言い合える環境を作る努力をします。いい作品を作る同じ仲間は立場は同じですから。

朝日新聞、10月13日、一語一会、をおせっちゃんが勝手にまとめました。


ついていいウソあるのでは・・中学生の意見

2022-10-26 16:41:46 | いろいろ

昨日の「ウソつきました」の投書と並んでいました。今日もウソに関する言葉です。
福岡県の中学生の意見から。おせっちゃんが勝手にまとめました。

小学校の道徳の時間に、友達にしてはいけないことをいくつかの項目から選ぶ授業がありました。私は「ウソをつくこと以外はいけない」と答えました。
友達も、先生も「すべていけません」と言い、私の答えは取り上げてもらえませんでした。

私は、相手や状況によってはついていいウソもあると考えたのです。

例えば友達とぶっつかって私が転びました。本当はとても痛いのに心配をかけないように「大丈夫」と笑顔で言うこともあります。相手を不安にさせないためにつくウソです。

本当のことを言うと、相手を傷つけてしまうような場合はウソを言うことも丸く収める手段として許される(というよりむしろ褒められる)ウソですよね。

この子の言い分は良く分かります。〇か✕かの答え方ではこの微妙な感情によってつかれるウソまでは、表せません。道徳の時間だけでなく、いろいろな場合で、この微妙さこそ大事な気遣いとして、子供たちの成長に大事なことではないのでしょうか。
先生にはただ〇✕で仕分けをして終わりにせず、こんな貴重な考え方が生徒から出たのです。みんなで意見を言い合って深く考える時間にしてほしいと思うのです。
考えて、違う意見も入れてなお考えていくことが大事だと思いますが。